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意思のきっかけを見つめる、批判する(2026年夏に読んだ本)
約4,252文字(読了目安 7 分)
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- reiji990
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以下、頁数のみまたは論文名と頁数を記す引用は、見出しの書籍を出典とします。他からの引用はその都度書名を記します。
『魔女狩りのヨーロッパ史』
この夏は魔女が登場するオタク向けコンテンツをよく消費していたこともあり、歴史上の魔女に関する本を何冊か読んでいました。その中で、最新の研究を反映した魔女像を書いている(ように見えた)のがこの本でした。
森島恒雄『魔女狩り』など、魔女狩りを「非合理的な考えが跋扈した、現代に比して劣った時代の産物」のように扱う書籍も多く出版され、今もそれらを援用する言説を見かけることがありますが、決してそうではないのだと本書は語ります。
本書によれば、魔女狩りとは高齢の女性が主な対象となった迫害行為であり、悪魔学者がスコラ学の上に成り立たせた悪魔学と、ローマ法の研究が進むことで変わっていった裁判制度の中で拷問を正当化した都市エリートの仕事を、地方領主が自身の権威の誇示のために利用し、弱い立場にあった民衆同士の憎悪を増幅させることで広がった、とのことです。
神聖ローマ帝国のカロリナ刑法典など、ヨーロッパの各国には既に拷問に適正な手続きを求める決まりがあったにもかかわらず、悪魔学者たちは魔女犯罪を神への大逆罪と位置づけ、特別訴訟手続きを求め、拷問を恣に利用できるようにしました(p. 227)。悪魔学の成立にはジャン・ボダンら人文主義や古典を学んだエリートが貢献しました。ハインリヒ・クラーマーらによる『魔女への鉄槌』は、トマス・アクィナスの『神学大全』の権威に依拠し、スコラ学の方式に則り反対意見を取り上げ論駁します(p. 104)。彼らの表現は「推論・論理はきわめて構造化されていて、矛盾があるように見える部分でも、すべてに合理的な答えが準備されている」(p. 119)ものでした。魔女狩りを支えた表現の中に、合理的に考えることを追求する姿勢や、歴史的権威を参照する知的態度が含まれていた、ということです。
当時としては珍しく魔女狩りに批判的な見解を示した思想家であるミシェル・ド・モンテーニュは、謬見の根本に理性の働きの欠点があると指摘していました(p. 200)。
われわれの理性は、この世界のほかに何百もの世界をでっち上げ、それの原理と構造を見いだすことができる。それには材料も土台も要らない。理性はつっ走るままに放っておかれると、空虚の上にも、充実の上にも、無からも、有からも、立派に建物を建ててゆく。
モンテーニュ(著). 原二郎(訳)(1973). 『エセー』第3巻第11章「びっこについて」(『筑摩世界文学大系 14』所収, p. 320). 筑摩書房
黒川正剛『魔女狩り 西欧の三つの近代化』で説明されているような、ルネ・デカルトの機械論的自然学がスコラ学に取って代わり理性的に世界を認識することで魔女概念を崩していった、という「現代人に都合のいい進歩史観の物語」に対しても本書は懐疑的です(p. 215)。
合理的・機械論的宇宙観や理性尊重の懐疑主義が、そのまま人間の不条理な行動を抑制するわけではない。むしろ理性という認識の機械装置の根源的動力因は、人間の内部に潜む非合理な衝動なのであり、合理と非合理がたやすく入れ替わることは、二〇世紀の次なる蛮行——ナチス・ドイツ——を見れば明らかだろう。
ここまで、本書が魔女狩りに関する事実や見解を通して、理性を無批判に称揚する態度を批判していることを確認してきました。続いて、情念についての本書の記述を確認していきます。
本書によれば、魔女狩りという高齢の女性が主な標的となった迫害行為をエリートが正当化した背景には、女性蔑視がありました。彼らの「女嫌い」の妄想は、聖書の章句を過剰解釈しながら歴代の教父、神学者、修道士らが引き継ぎ拡大していったものになります。悪魔学者らは、魔女が女性なのは女性の肉欲が原因であり、退嬰的な肉欲を満たすために悪魔と交わるのだ、などと語ります(pp. 18–19)。これらは事実の記述の形をとり、彼らの女性蔑視の情念を直接語らず(無批判)にそれを正当化します。
また、社会の規律化の中で、異教の呪術や薬草に詳しい賢女が魔女の典型として扱われるようになりました。これは、文献医学を重んじた都市エリートが民間療法や産婆術を軽視し、医学的知識を独占するために民間療法を悪魔化したのだと本書においては解釈されます(pp. 174–175)。
都市エリートに権威づけられた魔女狩りを、地方領主は自身のために利用します。つまり、民衆の日々の生活に対する不満が自身に向かないように、また権利を維持するために、民衆に同士討ちをさせ、魔女の処刑によって秩序の回復を演出することで権威を誇示していたのだとされます。民衆は、生活苦から土着の呪術に縋った独り身の老女などに、自分たちを苦しめる荒天や疫病の責任を負わせました。魔女として告発された人は、尋問や拷問の末、自白とともに自身の家族や隣人を告発し道連れにしました。この告発の応酬は、生活苦や不和などの個人間の感情に由来していたのだろうと本書は語ります。
本書が訴えるのは、理性的態度をそうであるというだけで称揚するのではなく、感情的に振る舞うことをよしとするのでもなく、認識や意思決定の「根源的動力因」、計算のきっかけとなる情念を我々は注意深く見つめるべき、ということであるように思われます。
人が理性的に考えることを目指したとしても、実際には隣人との不和や生活不安や欲求不満などがそもそもの考えのきっかけだった、というのは決して珍しいことではありません。それを認識しないまま言葉を重ねても、差別を正当化するような悪でしかない結論を導きかねないでしょうし、自身の(解決したい)問題の解決にも寄与しないでしょう。自身の問題意識を見つめるというのは辛いものですし、他人の指摘を受けて素直に意見を再検討するようなできた人もそういないのですが、ある種の問題のある状況を脱出する糸口は、自身の思考のきっかけを精緻に認識する、言語にし批判する、ことにしかないように思われます。
『トゥーキュディデースとホッブズ』
本書はトゥキュディデスとトマス・ホッブズに関する論文集です。はじめ二つの論文では、トゥキュディデスは意思決定以前の情念を深く見つめ批判した人物として論じられ、その後ホッブズのトゥキュディデス翻訳に関する論文が二つ、最近のホッブズ研究が二つ収録されています(本記事で言及するのは二つ目まで)。
トゥキュディデスは自作において情念、とりわけ「怖れ」に大きな役割を担わせていました。
というのは、最も真実な原因は、言葉の上では最も表明されなかったが、アテナイ人が強大となってラケダイモン人に恐怖を与え、戦争へと強制したのだと私は考える。
トゥキュディデス(著). 藤縄謙三(訳)(2000). 『歴史1』(西洋古典叢書)I. 23. 6, p. 25. 京都大学学術出版会
頻出する怖れの観念は、δέος(懸念)とφόβος(恐怖)の二つに大別され、語り分けられます(上述したI. 23. 6には後者が用いられます)。δέοςは賢慮をもたらし、将来と結びつき、幸福な結果をもたらし得る、とされます。一方で、φόβοςが優位に働いた判断は精査を欠いたものとして否定的に評価されます。これは、δέοςが言語の運用を促す情念であり、φόβοςは言語を阻害するためとされます。そのようにして、トゥキュディデスはペロポネソス戦争の原因を人々の情念から分析します。
δέοςが将来という観念と結び付くのに対して、φόβοςは現在に貼り付く[……]δέοςは時に幸福な結果をもたらすが、φόβοςは必ず不幸な結果を招く。これこそThoukydidesがそのメカニズムと負の帰結を好んで研究する諸々の情念の典型であった。
情念は、言語で表現されることによってフィルタリングが施され、その成果は意思決定の資源として活用され得る。逆に、フィルタリングを介さない、剥き出しの情念から行為へ直行することは愚かである、とされます。
情念、したがってとりわけ効用という価値、は全面的に尊重されなければならない。何故ならばこれらは素材ないし資源を構成するからである。ただしその際に、それらの素材に何らかの批判的な査定が施されなければならない。このようなDiodotosの思考を想定しうるのは、彼がこのフィルタリングの機能を提供するのは言語ないし弁論(λόγοι)である(42. 2)、とするからである。決して素材を超越する原理に拠り所が求められるわけではない。言語のフィルタリング機能は厳密な対論を経た集団的な熟慮のそれに置き換えうる。DiodotosがKleonを糾弾するのは、この過程を飛ばしていきなり行為へ直行する点である。これこそが愚かさ(42. 2: ἀξύνετος)ないし自己利益追求(ἰδίᾳ τι αὐτῷ διαφέρει)の定義である。
視野を欠いたまましかも情念に依拠して反射的な決定を下した場合、それはその特定の情念の起源であるところの原始的なレシプロシティーのメカニズム媒介を発動させたことになりはしまいか?[……]正義と共に掲げられる自由な政治的決定が実は必要な批判的なフィルタリングを欠く場合、容易に最悪の情念の餌食になる。他の多様な情念を無視するからでもある。
情念から直接行動を引き出すことは未来を捨て失敗に至る愚かな選択であり、それを避けるために、情念を言語のフィルターにかけて、批判する、という営みがここでは語られています。正しく成立した言語表現というのは、言語の持つフィルタリング機能により、よりよい選択を私たちに提示し得るものです。意思のきっかけである情念を、言語を用いて批判し、フィルタリングの成果を土台として言語表現を構築していくという発想は、「情念の餌食」にならない、個人ないし社会のより良い在り方を探す上で有効なように思われます。

