
  <rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/">
    <channel>
      <title>調和と変革</title>
      <link>https://reiji990.blog/blog</link>
      <description>本とアニメと音楽について</description>
      <language>ja</language>
      <managingEditor>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</managingEditor>
      <webMaster>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</webMaster>
      <lastBuildDate>Mon, 04 May 2026 00:00:00 GMT</lastBuildDate>
      <atom:link href="https://reiji990.blog/tags/随筆/feed.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/>
      
  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/hobbies02</guid>
    <title>ラテン語を学習することから得られた思わぬ展望</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/hobbies02</link>
    <description>ラテン語の練習問題の解説と、ラテン語を学んで実感した学ぶ意義について</description>
    <pubDate>Mon, 04 May 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category><category>ラテン語</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>約半年前からラテン語講座に通っています。</p>
<p>毎月1.5時間の講義があり、２年かかってようやく初等文法を終える予定の、かなりゆったりとしたペースの講座なのですが、課される宿題が相応にあり、ラテン語と他の習い事と労働と生存のための活動を全てこなすことに難儀する日々を送っています。先日、2025年度後期の講義が終わり、一先ずの節目を迎えることができました。</p>
<p>ラテン語の学習は私の<a href="https://reiji990.blog/blog/akira-koba">或る問題意識</a>から取り組まざるを得なかったのですが、取り組んでみて思わぬ展望が見えてきたので、今回はその話をしようと思います。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>ラテン語初学者による練習問題解説</h2>
<h3>解説の前に</h3>
<p>展望の話をする前に、私のラテン語学習がどういうものかを説明したく、先日解いた教科書の練習問題を解説してみようと思います。</p>
<p>講義で答え合わせしていますので、（私の聞き漏らしや書き取りミスがない限り）答えは合っています。しかしながら、解き方まで見てもらっているわけではないので、以下に書くのは、初学者の、要領の悪い、練習問題を解く手順の記録になります。ラテン語学習の参考になるようなものではなく、「不慣れな言語を扱うと文を丁寧に読むことになる」ということを具体的に示すために書いた章です。</p>
<p>私は練習問題を大体この順序で解いています。</p>
<ol>
<li>各単語の見出し語（変化元）の形を推測しつつ辞典を引く</li>
<li>辞典から単語の意味と変化規則を確認する</li>
<li>各単語の意味と変化を特定する</li>
<li>名詞の格変化等から文の構造を読み取り、邦訳する</li>
</ol>
<p>邦訳するにあたり、当然のことながら各単語の意味を調べる必要があります。しかしながら、ラテン語の名詞群と動詞は変化します。そして、辞書はその内の一つの形を収録しています。従って、問題文に記載された単語をそのまま引くことはできないことが多くあります。そのため、辞典の見出しに使われている形を推測して引き、意味と変化規則を確認した上で、改めて各単語の変化を特定する必要があります。これは慣れなければいけませんが、分からない場合は変化早見表を見ながら対処します。</p>
<p>ラテン語の語順は現代語と比較して自由です（散文においては正常とみなされる語順があります）。ラテン語は語形変化が複雑なため、名詞や動詞の機能はその語形によって示され、語順によって限定、束縛されません。そのため、各単語の変化から文の論理構造を読み取ります。</p>
<h3>解説</h3>
<p>以下の文を邦訳します。</p>
<blockquote>
<p>Trāns fluvium sine perīculō domum redeō.</p>
</blockquote>
<p><Source>松平千秋・国原吉之助. 『新ラテン文法』, 東洋出版, 1992, p. 44</Source></p>
<p>各単語の意味と変化を確認します。</p>
<p>一語目のtrāns（…を超えて）は前置詞です。</p>
<p>ラテン語の前置詞は修飾する名詞の格がその前置詞によって決まっています。奪格のみを修飾する前置詞、対格のみを修飾する前置詞、奪格と対格の両方を修飾する前置詞、の三種類があります。trānsは対格支配で、文中の対格の名詞と他の語の関係を示します。文の全ての名詞の格変化を確認した後、邦訳時に対格の名詞と紐付けます。対格の名詞が複数ある場合は、その中から表現が正しく成立する組み合わせを選びます。</p>
<p>二語目のfluviumは名詞です。</p>
<p>日本語では、名詞と他の語との関係を格助詞（「が・の・を・に・と・へ・から・より」等）で説明します。ラテン語は名詞に格変化があり、格変化で名詞と他の語との関係を表します。名詞の格変化の規則は大きく分けて五種類あり、特定の名詞がどの規則に従うのかは辞典を引いて確認することになります。</p>
<p>研究社の『羅和辞典〈改訂版〉』（以下、辞典は研究社『羅和辞典〈改訂版〉』を指します）の名詞の見出し語は単数主格形です。意味を確認したい名詞が格変化している場合は問題文に記載の単語から直接引くことはできませんが、慣れてくれば問題なくすぐに引くことができます。fluviumの単数主格形はfluviusです。</p>
<p>fluviusを辞典で引くと、「川, 流れ; 川の水」という意味の他に、「-ī, m」と説明があります。これは、単数属格形の語尾が-īであり、男性名詞（m）であることを意味します。ラテン語は単数属格形の語尾で名詞の変化を種別しており、-īは第二変化を意味します。教科書では、fluviusと同じ第二変化男性名詞であるdominusの格変化が紹介されています。</p>
<Caption>表１　名詞の第二変化（-ī）　男性</Caption>
<table>
<thead>
<tr>
<th>語格</th>
<th>格の機能（参考）</th>
<th>単数（sg）</th>
<th>複数（pl）</th>
</tr>
</thead>
<tbody>
<tr>
<td>主格（nom）</td>
<td>主語</td>
<td>dominus</td>
<td>dominī</td>
</tr>
<tr>
<td>属格（gen）</td>
<td>所属、所有</td>
<td>dominī</td>
<td>dominōrum</td>
</tr>
<tr>
<td>与格（dat）</td>
<td>間接目的語</td>
<td>dominō</td>
<td>dominīs</td>
</tr>
<tr>
<td>対格（acc）</td>
<td>直接目的語</td>
<td><strong>dominum</strong></td>
<td>dominōs</td>
</tr>
<tr>
<td>奪格（abl）</td>
<td>場所、手段、…と共に</td>
<td>dominō</td>
<td>dominīs</td>
</tr>
<tr>
<td>呼格（voc）</td>
<td>呼びかけ</td>
<td>domine</td>
<td>dominī</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>表１の語格の順は教科書に準じていますが、これは講師曰くドイツ流の並べ方だそうです。辞典では主格の次に呼格が並んでいます。主格と呼格、与格と奪格は同じ形になることが多くあるため、それらが隣り合うように配置した方が合理的な気もしますが、一先ず教科書に倣います。</p>
<p>この表を参考にしつつ、fluviumの格を確認します。fluvi<strong>um</strong>と同じ変化をしているのはdomin<strong>um</strong>ですから、問題文にあるfluviumは単数対格形です。対格は概ね直接目的語を示します。fluviumを日本語に訳すと「川を」になります。</p>
<p>続きの「sine perīculō domum」も前置詞と名詞で、「Trāns fluvium」と同じ要領で確認するだけですので、解説を省略します。</p>
<p>redeōは動詞です。ラテン語の動詞は、態（教科書では相）、法、人称、数および時称で変化します。これも名詞同様に、辞典の見出しに使われている形（直説法現在一人称単数形）を推測して引くことになります。今回はredeōが直説法現在一人称単数形のため、そのまま辞典を引くことができます。</p>
<p>これで確認が終わりましたが、通常は、この後動詞の変化を確認します。参考までredeōの変化も確認します。</p>
<p>redeō（帰る）は接頭辞re-（後方へ）とeō（行く）の合成動詞です。母音重複を避けるため、子音dを加えてredeōという形となっています。redeōの変化はeōと同じです。尚、規則動詞は四種類ありますが、eōは不規則動詞です。</p>
<p>ラテン語では人称と数を動詞の変化で示します。そのため、特別に強調するときを除いて、代名詞（「私・私たち・あなた・あなたたち・彼・彼ら・それ・それら」等）の主語を置くことはありません。</p>
<Caption>表２　eōの直説法現在の変化</Caption>
<table>
<thead>
<tr>
<th>人称</th>
<th>単数（sg）</th>
<th>複数（pl）</th>
</tr>
</thead>
<tbody>
<tr>
<td>一人称</td>
<td><strong>eō</strong></td>
<td>īmus</td>
</tr>
<tr>
<td>二人称</td>
<td>īs</td>
<td>ītis</td>
</tr>
<tr>
<td>三人称</td>
<td>it</td>
<td>eunt</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>表２より、red<strong>eō</strong>が一人称単数形であることが分かりました。意味は「私は帰る」になります。</p>
<p>これで、各単語の意味と変化の確認が終わりました。</p>
<Caption>表３　各単語の意味と変化</Caption>
<table>
<thead>
<tr>
<th>文中の表現</th>
<th>辞典の見出し</th>
<th>意味</th>
<th>品詞</th>
<th>変化</th>
<th>備考</th>
</tr>
</thead>
<tbody>
<tr>
<td>Trāns</td>
<td>trāns</td>
<td>…を超えて</td>
<td>前置詞</td>
<td>-</td>
<td><strong>対格</strong>支配</td>
</tr>
<tr>
<td>fluvium</td>
<td>fluvius</td>
<td>川、流れ</td>
<td>名詞</td>
<td>単数<strong>対格</strong></td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>sine</td>
<td>sine</td>
<td>…なしに</td>
<td>前置詞</td>
<td>-</td>
<td><strong>奪格</strong>支配</td>
</tr>
<tr>
<td>perīculō</td>
<td>perīc（u）lum</td>
<td>危険、試し</td>
<td>名詞</td>
<td>単数<strong>奪格</strong></td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>domum</td>
<td>domus</td>
<td>家</td>
<td>名詞</td>
<td>単数対格</td>
<td><strong>前置詞なしの対格形</strong>で、<strong>動詞</strong>の「どこへ？」を説明している</td>
</tr>
<tr>
<td>redeō</td>
<td>redeō</td>
<td>帰る</td>
<td><strong>動詞</strong></td>
<td>一人称単数</td>
<td>-</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>名詞と動詞の変化が分かり、前置詞と名詞、名詞と動詞の組み合わせが確定しました。</p>
<ul>
<li>川を越えて</li>
<li>危険なしに</li>
<li>私は家に帰る</li>
</ul>
<p>「川を越えて」と「危険なしに」が何を修飾するかを考えます。ここからは常識的な思考を巡らすことになります。「川を越えて」は「帰る」経路を説明しています。「危険なしに」は「川を越えて」を修飾しています。「川を越え」ることが一般に危険を伴い得るという常識を前提に、この帰路において損害やその可能性がなかったことを説明しています。</p>
<p>これらを日本語として成立するように整えます。</p>
<blockquote>
<p>私は無事に川を渡って家に帰る。</p>
</blockquote>
<p>できました！</p>
<h2>ラテン語を学習することから得られた思わぬ展望</h2>
<p>練習問題を１問解くのに、私はいつも５分から10分程度かかっています。上に書いた作業をより簡易的に、軽量なテキストエディターと手製の早見表テキストファイルと物書堂のデジタル辞書を駆使して、各単語の確認作業を能う限り素早く行うようにしていますが、それでもかなりの時間がかかります。ラテン語講義で課される宿題は毎回30問程度ありまして、毎月最低５時間は学習時間を確保しないと予習が終わりません。講義や復習と合わせて、毎月おおよそ10時間の学習になります。</p>
<p>どうしても読むのに時間がかかる言語を継続的に読む状況に自らを追い込んでいるわけですが、これが言語を丁寧に読む良い訓練になっている実感があります（成果が形になるのはまだ先の話ですが）。不出来な生徒、学生だったため、かつて学校で習った英語やドイツ語はこのように丁寧に読んではいませんでした。それらを学び直しても良いとは思いますが、今の私にとってラテン語の方が優先度が高いということの他に、自然言語による論理的な表現を学ぶためにはラテン語が良いのではないかと最近は考えています。</p>
<p>ラテン語の、名詞の機能を格変化で説明する、というのは取り組んでみると文の論理構造を追いやすいことが分かります。前章の練習問題でも、前置詞と名詞の組み合わせは名詞の格変化を確認した時に機械的に確定しました（勿論、これは前置詞の練習問題だからそのような文になっているのであって、いずれ取り組む可能性のあるウェルギリウスやオウィディウスはそう簡単ではないでしょうが）。西洋においてラテン語が学問の共通言語だったことにも納得します。</p>
<p>講師曰く、英語で一定程度複雑な論理構造を示す言い回しはその殆どがラテン語由来であり、そのラテン語表現の多くは古典ギリシア語に由来するそうです。そしてそのことを以て、古典ギリシア語を学ぶ必要性を説きます（講師は毎回これ以外にも様々な観点からラテン語学習者に対して古典ギリシア語を学習することを薦めています）。私はラテン語に触れたばかりで当然習熟していない段階ですが、取り組んだ範囲に於いて講師の話は尤もなように聞こえます。</p>
<p>日本で生活していると、「日本語は曖昧で、英語は論理的」といったフレーズが、肯定的あるいは否定的な形で、数えきれない程視界に入ってきます。論理的であることが（多くの場合経済的利益を獲得するために）良いことだから身につけたい、あるいはその見解のいずれかの要素を否定したい（因果関係や事実の誤りの指摘、経済的利益を希求することへの忌避感の表明をしたい、等）、と多くの人が感じるために、このフレーズは広く関心を呼ぶのでしょうか。もし本当に論理的な表現というものに興味があり深く学びたいのなら、英語等の現代語ではなく、論理的表現の源泉であるラテン語や古典ギリシア語に取り組む方が良いように思われます。</p>
<p>論理的な表現に対する私の関心を話します。このブログに載せている記事の一部は、私自身が後戻りしないために、自分で読み直すために書いています。秋山蓮が「後戻りできなくなる」行為を決意した時に「俺はそれを望んでる」と言ったように、あるいは白銀リリィが誰かのためでなく「私自身のために歌っている」ように。そのためには、表現に誤りがないこと、読み誤る可能性を極力排除することを心がけ、逃げる余地のない表現と構造にするべきです。そうできれば良いのですが、結局読み返すたびに手直ししており、一部記事の変更履歴は悲惨なことになっています。</p>
<p>ラテン語は古典ギリシア語を学習するための前提知識として取り組む必要が生じたため学習していますし、古典ギリシア語は、それを原語とする作品、具体的にはホメロスやソフォクレスの、適切な読解の助けになることを期待して今後取り組む予定です。これらはとても先の長い話になりますし、果たして最期に私がこの取り組みに意味を見出すのかは分かりません。ただ、この他に、期せずして、論理的表現というものはどういうものか、論理的に言語を読むとはどういうことなのか、ということをラテン語を通して学ぶことになりそうです。ラテン語に継続的に取り組むことで、私の言語運用能力も多少は改善されるのではないかと期待しています。</p>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/akira-koba</guid>
    <title>従う規範についての整理を試みる</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/akira-koba</link>
    <description>彼女のゆくところ次々と花が咲きいづる 日々の務めを注意深く果たし歩んでいく道に 難儀で思うようにいかない我らの人生も 彼女とともにあれば美しい筋道をたどるであろう ホィティアー モンゴメリ, L, M（1909）『アンの青春』松本侑子訳, 集英社. 白銀リリィが愛するアンの小説の…</description>
    <pubDate>Fri, 29 Nov 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>彼女のゆくところ次々と花が咲きいづる<br/>
日々の務めを注意深く果たし歩んでいく道に<br/>
難儀で思うようにいかない我らの人生も<br/>
彼女とともにあれば美しい筋道をたどるであろう<br/>
ホィティアー<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup></p>
</blockquote>
<p><Source>白銀リリィが愛するアンの小説の題辞より</Source></p>
<hr>
<h2>問題意識</h2>
<p>SNSの興盛により扇動活動の収益化が容易になったことなどが影響しているのだろう、昨今は感情的な反応を正当化するために都合よく規範めいたものを恣意的に用いた主張がよく拡散されるようになった。</p>
<p>体験や一部報道を拠り所に特定の属性を持つ人に対する差別的感情を露わにする人、国体や共同体の維持のための奉仕ないし犠牲を軽率に他者へ要求する人、「様々な」考えを併記し中点のポジションを取ろうとすることが穏当で善いと考える人、……。</p>
<p>彼らの主張は、彼らの認識はさておき、実質的に従う規範はなく、ただ徒党の拡大と派閥争いという社会的メカニズムのうねりによって生まれた泡沫でしかない。実社会に影響を与えて良いものではない。しかしながら、彼らの主張はSNS上の拡散にとどまらず実社会に影響を及ぼしている。実行力を持って様々な領域で実践されている。私の実生活においてもこのようなやりとりを仕掛けられる機会が時折あり、SNSを閉じたところで問題を見て見ぬ振りをすることすらできない状況となっている。</p>
<p>そして、私もしばしば彼らのようになる。つまり、扇動家の発信に影響され同調することがしばしばある。これまでは幸運にも（認知した、指摘された等の）反省の機会があり脱却できたが、このような状況を甘受するべきではなく、恒久的に彼らと同じ状態に陥らないようにしたい、またもし今その状態にあるのなら脱却したい、という思いは日々強くなる。</p>
<p>彼らのような振る舞いを否定しようとすると、移ろい易い刹那的感情を意思決定基準に使うことを避け、より普遍的な規範に従いたいと思うようになる。</p>
<p>他に、私が所属するとある組織（≠勤務先）の運営の問題がある<sup><a href="#user-content-fn-2" id="user-content-fnref-2" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">2</a></sup>。組織の決定事項には規範のない不透明な互酬的発想が深く食い込んでおり、組織の理念は遂行されず、問題は放置され、所属員に諦念が広がっている。成り行きとはいえ私も運営側に所属しているため、責務として組織の決定事項と互酬的発想を引き剥がそうと努めているが、当然ながら警戒され、失敗が続いている。この件については折りを見て退却するが、反省のためにも彼らの動機とメカニズムについての正しい理解は行いたいと思っている。</p>
<h2>きっかけ</h2>
<Tweet id="1718932217001550074" />
<p>昨年、拡散されていた『シン・ゴジラ』の感想への批難をSNSに投稿した。この『シン・ゴジラ』の一部感想の問題点については以下記事が参考になる。</p>
<blockquote>
<p>鎌倉に再上陸したゴジラは、神奈川県を蹂躙し、東京都との境界である多摩川に至りはじめて日本からの攻撃を受ける。なるほど首都侵入阻止やゴジラ迎撃のためにはそれも一つの手段だが、先述のとおり神奈川県は置き去りである。これはどういうことか。まさに「政治」が駆動すべき矛盾はなんら解消されず、放り出されたまま、軍事的合理性という論理がここではむき出しになる。<sup><a href="#user-content-fn-3" id="user-content-fnref-3" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">3</a></sup></p>
</blockquote>
<p>政治家と官僚と自衛隊が「軍事的合理性という論理」のみに駆動されて何の障害物もない道を驀進する様は、優れた棋譜やゲームプレイ動画を鑑賞するような快楽を生む。この快楽に飲み込まれてしまったのか、一部の鑑賞者は作中の政治的決定が迅速に行われる様を現実に行われるべきものとして扱っていた。これは決して肯定できない。するべきではない。という考えの表明だった。</p>
<p>この投稿をきっかけに、知人に『アンティゴネー』を薦められた。</p>
<p>『アンティゴネー』の物語は、アンティゴネーの兄ポリュネイケースの死骸を巡って展開する。</p>
<p>アンティゴネーの叔父でもあるテーバイの王クレオンは、テーバイの敵として戦死したポリュネイケースの死骸を野に捨て埋葬を禁ずることで見せしめにする。アンティゴネーは「神々の定めた、文字には書かれぬ確固不動の法」に従い布令に背き、野に捨てられたポリュネイケースに砂を振りかけて葬る。この行為によりアンティゴネーは投獄される。</p>
<p>（尚、この「神々の定めた、文字には書かれぬ確固不動の法」について、これは信心の問題というよりは、世間が「リアリズム」という語で持て囃す限定的な合理的判断を、普遍的規範に従って否定したと捉えるべきだろう。）</p>
<p>アンティゴネーの問題意識は、彼の映画の感想に対しての私の問題意識に対応する。つまり、世間が「リアリズム」という語で持て囃す限定的な合理的判断のためにその他（ポリュネイケース、神奈川県民）を見捨てる決定に同調することを否定するということである。</p>
<p>『アンティゴネー』の、アンティゴネーがポリュネイケースに砂を振りかけるイメージの美しさ、現代の私が抱える問題意識にも通ずるテーマの普遍性に心惹かれ、以来ギリシャ悲劇を読むようになり、やがて滑るように木庭顕へ流れ着いた。</p>
<h2>古代ギリシャの文芸</h2>
<p>木庭顕『クリティック再建のために』によると、14世紀以降のヨーロッパではローマの法体系およびそのルーツとなった古代ギリシャの政治のあり方を学び、これを自分たちの現実に合わせた形で実践して社会を形成することを目指したらしい。</p>
<p>古代ギリシャにおける政治（社会の意思決定手続）はブレーキの役割を持つ。その政治の前提にはホメーロスとヘーシオドスがあった。一例を挙げると、『イーリアス』はトロイア戦争を通して悲惨さをもたらす人間社会のメカニズムを明晰に語る。集団が個人を侵害する行為を、行ってはならないこと、目の前で起きたら放ってはいけないこと、として共有する。叙事詩の出来事のイメージを共同体が共有し、論拠として引くことで、集団が個人を侵害する行為を意思決定させないメカニズムが働く。叙事詩が提示するイメージが作る思考様式によって集団の互酬的メカニズムを一旦止め、熟考、議論する余地を作る。</p>
<p>他に、叙事詩の提示するイメージを極大化したものとしてソフォクレス等の悲劇がある。これらはより強烈な、読めば後戻りできなくなるほどのイメージを提起する。これもモラルの基盤となり、政治を横から支える。</p>
<p>古代ギリシャの政治に使われた前提と操作は西洋型社会の政治の基盤となっている。そして、私の憎悪する互酬的な集団メカニズムを見通すものである。</p>
<h2>クリティック</h2>
<p>書名にもあるクリティックについて、書中最も短い説明としては「論拠の論拠を問う」とある。また、講談社公式ページの試し読みとして参照できる「まえがき」でもある程度の説明がなされている。（かなりの文量となるため直接の引用は差し控える）</p>
<p><a href="https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000356080">https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000356080</a></p>
<p>何らかの論拠とすることを目的としてホメーロスやヘーシオドスのテクストを引くにあたり、それは正しいテクストを参照しているのか、解釈は正しいのか、を問い詰めることが当たる。この作業は論拠の質を問うものである。政治の論拠に対してこの作業が行われることで論拠が一定の資格要件に服するようになり、前述した政治の機能が強固なものとなる。そうして古代ギリシャにデモクラシーが成立する。</p>
<p>私がこれを近似的にでも行うとすると、正しいテクストか、という点については当面邦訳を採用する時点で諦めることになるが、正しい解釈か、という点については知的営為を積み重ねてきた全うな学術書を引くという方法が取られる。</p>
<p>こうした手続きを経て、ホメーロスやヘーシオドス、他古典古代の文芸のテクストに込められた思索を適切な形で意識に内蔵し、規範を獲得することを考えている。</p>
<h2>従う規範について</h2>
<p>規範なき考えに精神を蝕まれることを拒むことを目指した時、古代ギリシャに政治を成立させた、あるいは横から支えた文芸から規範を学ぶ、ということを見出した。これを基底とする、「確固不動の」規範の獲得、種々の問題を紐解く参照先の構築を試みることとする。</p>
<p>最近は週２、３『イーリアス』を読むことを習慣にしている。『イーリアス』の後は『オデュッセイア』、『神統記』、『仕事と日』、『ヘラクレスの楯』、ギリシャ悲劇と続くことになる。</p>
<p>読書家でもない身にとってはこれだけでもかなりの文量なのだが、クリティックの問題があるため当然これで足りるわけではない。</p>
<p>古典古代の文芸のテクストのより適切な理解を目指すのであれば木庭の他テクストと、その研究対象および関連した研究者のテクストを読むことになる。その前段として、そもそも基礎学力が絶望的に不足しているため、中等教育相当の世界史などの勉強も始めている始末である。</p>
<p>２００頁強の『クリティック再建のために』を一読するだけで８ヶ月掛かったことを考えると、学んだことを実践する前に寿命が尽きるようにも思えるが、これで天寿を全うするまで生きる目的が出来たのだと捉えてこれを「注意深く果たし歩んでいく」ことにする。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-1">
<p><a href="http://office-matsumoto.world.coocan.jp/aa-daiji.htm">モンゴメリ, L, M（1909）『アンの青春』松本侑子訳, 集英社.</a> <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-2">
<p>記号を誤って記載していたため修正した。明言するが、これは勤務先への言及ではなく、別の組織についてのものである。 <a href="#user-content-fnref-2" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 2" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-3">
<p><a href="https://donoso.hatenablog.com/entry/20161014/1476444821">シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論 - Valdegamas侯日録</a> <a href="#user-content-fnref-3" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 3" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/yuzo-kawashima</guid>
    <title>川島雄三に関連するメモと思い出</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/yuzo-kawashima</link>
    <description>または私は如何にして硬派オタクを目指すのを止めてきららアニメを愛するようになったか</description>
    <pubDate>Mon, 08 Jan 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category><category>映画</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>映画監督の川島雄三が割と好きなのですが、川島に言及する人が少ないので、川島界隈への加勢がてら個人的なメモや思い出を川島に絡めた形で編集して放流します。</p>
<p>ある程度前後が繋がるようにはしていますが、単なるメモの羅列から始まっていることもあり、特に全体を貫く論理展開のようなものはないです。</p>
<hr>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>きららアニメに対する批判と、川島雄三を知る以前の趣味</h2>
<p>きららアニメの話から始めます。</p>
<p>2022年の夏にTVアニメ『けいおん!』を鑑賞しまして、この種のアニメ(a.k.a きららアニメ)を楽しめるようになったことに気付き、それ以来この種のアニメをよく観ています。</p>
<p>この種のアニメは時折、「中身のない」とか、「どこを楽しめばいいのか、分からない」といった評価を受けることがあります。</p>
<p>この種のアニメ批判をする人は、作品が時代や社会や生き方に対して何らかの反応を示していることを求めていることが多いように見えます。例えば以下の記事では、『イノセンス』を「美少女アニメ」が席巻する時代への批判として読んでいます。これは、「中身」のある作品を好む人たちの、その主張や作品の読みかたの分かりやすい例と言えると思います。</p>
<blockquote>
<p>押井監督の『イノセンス』は、現在の「美少女アニメ」にみられる、クリエイターと観客（視聴者）における共犯関係を痛烈に批判している。
近未来に起こるガイノイド（女性のアンドロイド）の暴走殺傷事件の捜査が、『イノセンス』の中心的ストーリーであるが、この「ガイノイド」こそ、いわゆる美少女アニメのキャラクターを、アイロニカルに表現したものだといえよう。<sup><a href="#user-content-fn-0" id="user-content-fnref-0" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup></p>
</blockquote>
<p>私も、彼らと同じようなことを考えていた時期があります。私も学生時代から就業後数年間は『けいおん!』のような作品を好まず、強いメッセージ性のある映像作品を好む質のオタクでした。</p>
<p>その時期に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『マタンゴ』は100回以上は鑑賞しましたし、3桁には届かないにしても、実相寺昭雄やスタンリー・キューブリックの映像作品のいくつかも数十回は鑑賞していました。</p>
<p>何れもメッセージ性が高いとよく言われる作品・映像作家ですし、私自身台詞や演出からメッセージを読み取るために繰り返し鑑賞している、という意識でいました。
つまり、これらのフィクションから社会の問題点や生き方の当否などについて学び、現実に実践して自身の人生ないし自分の周囲の社会を豊かにしていこうという思いがありました。</p>
<YoutubevideoPlayer id="IzKTe8WDHeQ" />
<p>一方で、この1年半程は、制作者がメッセージ性を押し出す作品をあまり重要視しなくなり、余暇には『けいおん!』や『ゆるキャン△』やそれに類似したアニメ作品を繰り返し鑑賞する生活を送っています。</p>
<p>どうしてこのような趣味の変化があったのかを今になって考えてみると、どうも2017年に川島雄三を知ったことがきっかけのひとつだったように思います。</p>
<h2>川島雄三を知ったきっかけ</h2>
<p>数年前まで、私は就職でとある地方にいました。</p>
<p>そこは文化の供給が東京に比べれば少なく、演奏会はその多くがベートーヴェンやモーツァルトの有名どころの組み合わせのプログラム、新作以外の映画の上映イベントといえば公民館で著作権切れ名画の廉価版DVDを鑑賞する会、という環境でした。</p>
<p>決してベト5や『風と共に去りぬ』が嫌いというわけではありませんが、多少拗らせたオタク気質の私としては、家に籠って情報収集するだけでは知ることのできない凝った作品を知る機会が欲しい思いが強くなる日々でした。</p>
<p>(ただし、これは消費者としての話——演奏会や上映会などコンテンツ消費の機会が東京より貧しく、そうしたイベントを通じて思わぬ作品に出会う機会が少ないという話——であり、自身がプレイヤーとして活動する分には、演劇の裏方ボランティアをやってみたり合唱に参加したりと随分面白い体験はできていましたし、舞台制作に多少関与する中で舞台演出の見方が変わったり、人との関わりの中でオペラやショスタコーヴィチの評価を新たにする機会を得られていたので、彼の地での生活も「これは、いい経験でした!」と断言できるものではあります。)</p>
<p>そんなある日、食堂のテレビで、同地出身の映画監督、川島雄三の特集番組を見かけました。それで川島を知り、川島のそれなりに有名でそれなりにニッチという点が興味をそそり、また折角だから住んでいる土地に縁深い監督の映画を観てみようと思い、『洲崎パラダイス 赤信号』のDVDを購入し鑑賞しました。</p>
<p>以来、彼の抒情性を排した乾いた作風に惹かれ、今も時々彼の作品を観ています。</p>
<h2>好きな川島映画</h2>
<p>川島雄三は戦後日本を代表する映画監督の一人のはずですが、川島を重要視する人は私の周りに全くおりませんし、SNS上でも言及する人は稀ですので、作品紹介もしていきます。</p>
<p>私の最も好きな川島映画は『しとやかな獣』です。</p>
<p>家族ぐるみで悪事を働きまくり経済的に成り上がった一家と、彼らの許に訪れる客人たち(一家の被害者、一家より役者が一枚上の悪女)を描いたブラックコメディです。</p>
<p>成功した作家が借りている公団住宅を一家が乗っ取って贅沢する様子や、階段の上り下りで登場人物間の上下関係を表現する演出は『パラサイト 半地下の家族』を彷彿とさせます。</p>
<p>予告はあまり捻りのないバストショットが主に使われていて、構図の妙を伝え切れていないのが歯がゆいのですが、1:42のカットなどに見られる抜けた構図をふんだんに使い、狭い公団住宅の一室内だけの劇で約1時間半全く飽きさせない映像演出は何度観ても痺れます。</p>
<p>湿り気の無い乾いた演出で一家が軽口を叩き続ける様子と、時折差し込まれる戦後の生活のリアルや戦中派の鬱屈を感じさせる台詞で生まれる緊張感の緩急の付け方も良いです。</p>
<YoutubevideoPlayer id="eb1XoHpwdGE" />
<h2>川島雄三を取り巻く言葉</h2>
<h3>川島映画に対する批判</h3>
<p>私の語彙、表現能力では川島映画について十分に記述することができず、私がなぜ川島映画が好きなのかを自身で知ること自体が難しいので、その手助けにするために川島映画が当時どのように受容されていたのか、その表現を確認してみます。</p>
<p>キネマ旬報に掲載されていた川島映画の当時の批評を見ていきます。原著まで確認できておらず、孫引きです……。</p>
<blockquote>
<p>〔『相惚れトコトン同志』（一九五二年）〕流行歌や踊りの場面は全く不要であって映画がいつまでも、そんなもので商業価値を生もうとしているのは情けない。〔……〕もっと戦後の風俗と人心、それは新しいものばかりではなく、古いものも今なお生きていることに目をつけて、新しい庶民生活の風俗喜劇をつくりあげる野心があってよいはずだ。<br/><br/>
〔『あした来る人』（一九五五年）〕もちろん人物設定はそれに相応に疑ったもので、〔……〕すべて一風変わった人物像は〔……〕風俗的に面白い人物設定だが、新聞小説の魔術にひっかかった失敗作というほかない。<br/><br/>
〔『花影』（一九六一年）〕これは夜の銀座裏という特殊地帯をバックとした享楽ムードの風俗映画を出ない作になっているのである。<br/><br/>
以上の批評には、川島映画の特徴を表現する批評用語として「風俗」「風俗映画」という言葉が繰り返し言及されている<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">2</a></sup></p>
</blockquote>
<br />
書中に記載の出典(未確認):
<br />
滋野辰彦「日本映画批評『相惚れトコトン同志』」、『キネマ旬報』一九五二年五月下旬号、六一頁。
<br />
登川直「日本映画批評『あした来る人』」、『キネマ旬報』一九五五年六月下旬号、九五頁。
<br />
飯田心美「日本映画批評『花影』」、『キネマ旬報』一九六二年一月上旬号、八六頁。
<br />
佐藤勝治「日本映画批評『赤信号』」、「キネマ旬報』一九五六年秋・特別号、七八項。
<p>ここで「風俗映画」と言う言葉が出てきました。(語感から想像はできますが)私の手元の辞書には載っていない言葉でこのままでは不鮮明なので、これを確認しつつ、川島映画の受け取られ方、また川島雄三が自身をどのように捉えていたかを書いていきます。</p>
<h3>「風俗映画」</h3>
<p>キネマ旬報で『花影』を批評していた飯田心美は、「風俗映画」の定義を「その時代々々の風俗人情をうつした作品の総称」としています。<sup><a href="#user-content-fn-2" id="user-content-fnref-2" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">3</a></sup></p>
<br />
書中に記載の出典(未確認):
<br />
飯田心美「日本映画と風俗描写」、『映画評論』一九五一年七月号、四〇頁。
<p>語感から想像した通りの説明ではありますが、これだけでは少し短いので、近時の評論家が「風俗映画」という言葉で括って川島映画の特徴を言語化したもので補足します。</p>
<p>「人物の外面的な奇妙さに重きを置く演出、社会の表面に現れた様々な社会現象について語るナレーション」で作られた映画<sup><a href="#user-content-fn-3" id="user-content-fnref-3" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">4</a></sup>、より技術的な側面から説明すれば「クローズ・アップよりロング・ショットやバスト・ショットを多用する」演出と「映画の筋や人物の心理を語るのではなく、数字や名称を羅列する」ナレーションで作られた映画<sup><a href="#user-content-fn-4" id="user-content-fnref-4" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">5</a></sup>、と書けばもう少し分かりやすいでしょうか。</p>
<p>実際の映像作品ではどうなっているのかを確認してみます。『銀座二十四帖』の冒頭を日活が公開していますので共有します。観て欲しい、というより聴いて欲しいのはOPクレジット終了後のナレーション(2:23〜)です。</p>
<YoutubevideoPlayer id="BIYBHKVwuC0" />
<p>本編を観ていない方でも、冒頭のナレーションが「映画の筋や人物の心理」をまるで語っていないことはお分かりいただけるかと思います。『銀座二十四帖』は特に際立った例ですが、川島映画は他作品も同様の傾向があります。</p>
<blockquote>
<p>川島映画には人物の心理や筋とは関係のないナレーションが頻繁に用いられる。(中略)さらに『銀座二十四帖』の冒頭では、銀座で花屋を運営する三室（三橋達也）が花市場に寄り、開店準備をする道筋をたどりながら、銀座を地誌学的に説くナレーションが流れる。各々のナレーションは人物の奥深い内面に触れる代わりに、社会の表面に現れた様々な社会現象について語る。(中略)すなわち映画に大勢登場する奇妙で滑稽な人物像は、複雑な内面と思想を持つ人間ではなく、現代社会の断面、ひいては社会と風俗のカリカチュアとして提示されている。<sup><a href="#user-content-fn-5" id="user-content-fnref-5" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">6</a></sup></p>
</blockquote>
<p>ナレーションや演出が物語の補強として使われていないために、川島映画の中には、物語がやや希薄で時に背景の街並みや風俗が物語を超えてしまっているものがあります。それは川島も認識していました。</p>
<blockquote>
<p>風俗映画というか、当時の銀座を記録するのが主で、ストーリーは従になった作品です。<sup><a href="#user-content-fn-6" id="user-content-fnref-6" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">7</a></sup></p>
</blockquote>
<p>川島は自作が「風俗映画」と(多く否定的な文脈で)称されていることを認識しつつ<sup><a href="#user-content-fn-7" id="user-content-fnref-7" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">8</a></sup>、それでも「風俗映画」と呼ばれるような映画を発表し続けました。なぜ、「風俗映画」と称されるような制作上の特徴を川島は志向し続けたのでしょうか。</p>
<p>藤本義一が、織田作之助の『清楚』が世間(文壇?)から非難されていた時に川島が擁護したことを語っています。これを読むと、その答えが伺えます。</p>
<blockquote>
<p>で、世間では、織田作は変わったと、織田作というのは、戦局のなかで、どんどん自分の魂を売りさばいていく作家じゃないかと言われている時に、「いや、そうじゃない。こういう時にこれを書いて、これを基礎にして、一応、敵の目を誤魔化しておいて、次の出版統制の外れた暁にはまた素晴らしいもの書くよ」と。だから、"日本軽佻派"を名のってふたりで意気投合して、織田作にシナリオを書かせるんです。<sup><a href="#user-content-fn-8" id="user-content-fnref-8" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">9</a></sup></p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>『清楚』も、新聞批評とか文学史上では、織田作の作品としては、転向して自分を失って、世の中におもねって書いた作品であるという酷評を受けた。それを川島監督は、そうじゃないと。こういう節操を欠く部分、というよりも自分の思想を変えられていく部分をもつ時代のなかに生まれてきているんだから、しかたがないというんですね。<sup><a href="#user-content-fn-9" id="user-content-fnref-9" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">10</a></sup></p>
</blockquote>
<p>これに対する具珉婀の見解です。</p>
<blockquote>
<p>「出版統制の外れ」る時代の到来を予示する川島雄三の発言には、思想に対して彼が抱いていた不信感が如実に現れている。人物の外面的な奇妙さに重きを置く演出、社会の表面に現れた様々な社会現象について語るナレーションは、曖昧な思想ではなく、今という具体的で直接的な感覚を描くために川島雄三が用いた手法だったのである<sup><a href="#user-content-fn-10" id="user-content-fnref-10" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">11</a></sup>。</p>
</blockquote>
<p>「思想を変えられていく」感覚というのは、2024年を生きる私たちも体感しているものだと思います。十数年ほど前までは当たり前のように使われていた表現が今では憚られるようになったり、公衆衛生に関する常識が突然変わったり、その常識が急速に転回したり……。</p>
<p>それぞれの世間の思想の変化や個別の表現についての賛否をここには書きませんが、私自身、このような環境にいることで、川島のように「思想」や「ストーリー」といった観念に安易に迎合せず、現在目の前にあるものの具体性を追求することへの関心が強くなった実感があります。</p>
<p>例えば、私がよく楽しんでいる『けいおん!』や『ゆるキャン△』も、「ストーリーは従」で、主に高校生活や趣味の具体性を追求した作品です。
これらの作品の物語は、視聴者のストレス要因を極度に排除することに特化しており、人物間の軋轢や葛藤といった、物語上のカタルシスを生む(と同時にストレスにもなる)ものは殆ど描写されません。
平沢唯は初めてのギター購入イベントにおいて、高級ギターを琴吹紬のコネによってあっさり格安で購入していますし、大垣千明たちの山中湖キャンプでのピンチも、他のキャンプ客の助けであっさりと解消されます。
また、軋轢らしいものも、2作品のシリーズを通しても『けいおん!』11話の律と澪の間の一件だけですが、これも律の体調不良を原因とすることで、両者や周辺の関係に軋轢による不可逆的変化が起きないようにしていました。
これらの作品の「主」はストーリーではなく、キャラクターの可愛らしさや軽妙な会話、高校生活や楽器の練習やキャンプの風景のリアルさ、優れた音響や音楽になります。これは川島が『銀座二十四帖』において「ストーリー」を「従」にして「銀座を記録する」ことを「主」としたことに似ます。</p>
<p>きららアニメと川島映画に共通項を見出してから、私がきららアニメを楽しめるようになったのは、川島映画でこの種の映像作品の楽しみ方が分かったからではないか、と思うようになりました。</p>
<p>更に脱線してアニメ関連の話を続けます。</p>
<p>『けいおん!』を観始めた頃から、コンテンツツーリズムを楽しむことが増えました。
昨年は西宮市(『涼宮ハルヒの憂鬱』)を歩き、高尾山(『ヤマノススメ』)に登り、江ノ島(『ぼっち・ざ・ろっく！』)に行きました。今年初めには久喜市鷲宮(『らき☆すた』)を歩き、近く『けいおん!』観光を実行するべく準備を進めています。
(『ゆるキャン△』のモデル地は車移動を前提とする場所が多く実施が難しいところです……)</p>
<p>普段の食事は割合自炊しているのですが、そのレパートリーの一部は『ゆるキャン△』に影響されています。
1期5話で志摩リンが作るスープパスタは簡単に作れますし、家で余らせがちな牛乳の消費方法として有用なので愛用しています。</p>
<p>こうした、さながら『ポケモン GO』上でポケモンをゲットするために遠出をする人たちのように、現実での行為を通して肉体的にアニメを消費していくようになったのも、川島映画の具体性を追求した作風に影響された結果と言えないこともなくもなくもないかもしれません。</p>
<div style={{ display: 'flex', flexWrap: 'wrap' }}>
  <div style={{ width: '50%' }}>
    <img
      art="西宮"
      src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20240211/20240211170130.jpg"
      style={{ width: '95%' }}
    />
  </div>
  <div style={{ width: '50%' }}>
    <img
      art="高尾山"
      src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20240211/20240211170032.jpg"
      style={{ width: '95%' }}
    />
  </div>
  <div style={{ width: '50%' }}>
    <img
      art="江ノ島"
      src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20240211/20240211165711.jpg"
      style={{ width: '95%' }}
    />
  </div>
  <div style={{ width: '50%' }}>
    <img
      art="鷲宮"
      src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20240211/20240211170210.jpg"
      style={{ width: '95%' }}
    />
  </div>
</div>
<h3>「日本軽佻派」</h3>
<p>前項で、川島と織田作之助が「日本軽佻派」を名乗っていたことを藤本が語っていました。この言葉についても確認していきます。</p>
<p>「日本軽佻派」と言う言葉は有難いことに川島による解説がありますので、それを引用します。</p>
<blockquote>
<p>日本軽佻派——戦争末期の何とも云われぬもっともらしい雰囲気に反発を感じ、有志語らって（と云っても二三人に過ぎぬが）ひそかに逆説的な「日本軽佻派」の名乗りをあげ、そのことをたわむれに故人にはかったのに対し、讃意を表して来た。<sup><a href="#user-content-fn-11" id="user-content-fnref-11" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">12</a></sup></p>
</blockquote>
<p>織田は「日本軽佻派」について記述する際ジンメルの言葉に触れていました。
ジンメルについて、川島と織田の間には共通の認識があったようです。
ジンメルについての川島の解説から、「軽佻」という言葉には「退屈」を「避け」て且つ「人生に堪える」ための選択、というニュアンスが込められていることが窺えます。</p>
<blockquote>
<p>ジンメルの言——ゲオルク・ジンメルの日記抄の中の言葉「ある深さを持つ人間にとって人生に堪えるには一般に一つの可能性しか存しない。即ちある程度の浅薄ということである。」「大多敷の人々にとっては軽佻か退屈か何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である」等々。<sup><a href="#user-content-fn-12" id="user-content-fnref-12" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">13</a></sup></p>
</blockquote>
<br />
"清水幾太郎 訳,「日々の断想 60」『愛の断想 日々の断想』, p.80, 岩波書店, 1980"
<br />
"同「日々の断想 124」, p.116"
<p>川島の代表作、『幕末太陽傳』の話をします。</p>
<p>本作の主人公の左平次は、「やれ攘夷の勤王のと騒ぎ廻って」相模屋に入り浸っている高杉晋作ら奇兵隊の、その「思想」を重視する生き方には賛否の意を示さず、来る新時代への期待も旧時代への郷愁もなくただ秩序が崩壊し凋落し続ける「物騒な世の中」である幕末で、自身の肺の病の養生のことだけを考えて金稼ぎに奔走し、最後はアメリカに渡るために相模屋のしがらみを捨てて逃避します。ちなみに、川島が語る『幕末太陽傳』のテーマは「積極的な逃避」です。<sup><a href="#user-content-fn-13" id="user-content-fnref-13" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">14</a></sup></p>
<p>左平次の、世間の「もっともらしい雰囲気」に関与せずに個人の具体的な事情のためだけに終始行動する姿は、「日本軽佻派」の精神を分かりやすく体現したものだと思います。</p>
<p>今村昌平と川島のやり取りを紹介します。
この、良い映画を撮るといった観念よりも生活を優先することやそれを後輩に言える川島の価値観はどことなく左平次的です。</p>
<blockquote>
<p>彼には、名作も傑作ももちろんあるけれども、つまらぬプログラムピクチュアもたくさんある。松竹時代に「何故こんなひどい映画撮るんですか」という私の問いに、一瞬眼ばたきもせずに私の顔をみて「……生活のためです」と答えたことがあります。<sup><a href="#user-content-fn-14" id="user-content-fnref-14" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">15</a></sup></p>
</blockquote>
<YoutubevideoPlayer id="-WEf_yTcc98" />
<p>「日本軽佻派」の説明の、「戦争」の「雰囲気」への「反発」と聞くと、『細雪』などの戦前・戦中に発表された世の流れから距離を置いた創作物のことや、太宰治が戦時中に発表した作品内で戦争賛美の表現を徹底して避けていたという話を思い出します。</p>
<p>今年に入ってから、SNS上で直近の震災や事故に関する流言飛語や考えなしの反応が撒き散らされており、げんなりしています(否、これは今年に限らずいつものことですね……)。
この種の投稿のオリジナルは見ずに済んでいるのですが、それを諌める人たちの投稿がやたらと「おすすめ」されてくるので結局問題の投稿の内容が目に入ってしまうんですよね。そしてその指摘も必ずしも適切ではないという無間地獄。
「軽く死ねますね」。</p>
<p>当事者でないのであれば(の他にも、いくつかの留保を設けることにはなるのでしょうが)、こうした「節操を欠」いた「もっともらしい雰囲気」からは、左平次に倣って逃げるに限ります。この記事の編集作業もSNSから距離を置くための方策の一つです。こういうちまちました作業をしていると俗世から離れて無心になれて良いです。</p>
<h2>最近のこと</h2>
<p>最近はギリシャ悲劇などを不慣れな手つきで読んでいます。</p>
<p>読み始めたきっかけは別にありますが、今読んでいる目的は、近視眼的に眼前の事態に反応することを止めて、現実のあるべき姿を捉えて大局的な視野で物事を判断できるようになり、個人的な閉塞感を打開することです。
そのために、政治の原点の姿を端的なイメージで伝えるギリシャ悲劇や、法の原理を説くローマ喜劇や、それらの副読本的書籍をのろのろと読んでいます。
最近忙しくなってきたので、果たして今年中にまとまった量が読めるのかは分かりませんが……。</p>
<p>ですので、ここまで書いてきたことも既に過去のことで、最近は「思想」や「ストーリー」から距離を置くことから転向し始めていることを最後に書いて終わります。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-0">
<p><a href="http://k-onodera.net/?p=237">『映画 けいおん！』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん！論争」 | 小野寺系の映画批評</a> <a href="#user-content-fnref-0" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-1">
<p>具珉婀, 「思想からの積極的逃避」『川島雄三は二度生まれる』, pp.34-35, 水声社, 2018 <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 2" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-2">
<p>同上, p.37 <a href="#user-content-fnref-2" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 3" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-3">
<p>同上, p.45 <a href="#user-content-fnref-3" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 4" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-4">
<p>カワシマクラブ 編,「はじめに」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.21, ワイズ出版, 2018 <a href="#user-content-fnref-4" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 5" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-5">
<p>具・前掲, p.41 <a href="#user-content-fnref-5" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 6" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-6">
<p>川島雄三, 「自作を語る 銀座二十四帖」『花に嵐の映画もあるぞ』, p.326, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-6" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 7" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-7">
<p>川島雄三, 「自作を語る 東京マダムと大阪夫人」『花に嵐の映画もあるぞ』, pp.322-323, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-7" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 8" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-8">
<p>藤本義一,「師匠・川島雄三を語る」『鬼の詩 / 生き急ぎの記 藤本義一傑作選』, p.279, 河出書房新社, 2013
{/* 藤本義一,「師匠・川島雄三を語る(講演再録)」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.390, ワイズ出版, 2018 */} <a href="#user-content-fnref-8" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 9" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-9">
<p>同上, pp.279-280
{/* 藤本義一,「師匠・川島雄三を語る(講演再録)」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.391, ワイズ出版, 2018 */} <a href="#user-content-fnref-9" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 10" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-10">
<p>具・前掲, p.45 <a href="#user-content-fnref-10" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 11" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-11">
<p>川島雄三 序・註, 「織田作之助からの手紙」『監督川島雄三 松竹時代』, p.187, ワイズ出版, 2014<br />
尚、旧字体は新字体に，旧仮名は新仮名にあらためた。 <a href="#user-content-fnref-11" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 12" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-12">
<p>同上, p.187<br/>
ジンメルの言葉の出典は、"Georg Simmel, Fragmente und Aufsätze : Aus dem Nachlaß und Veröffentlichungen der letzten Jahre, münchen, Drei masken Verlag, 1923"<br/>
入手しやすい訳での該当箇所は以下。(川島の引用する訳は未詳。) <a href="#user-content-fnref-12" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 13" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-13">
<p>川島雄三, 「監督の言葉 『幕末太陽傳』」『花に嵐の映画もあるぞ』, p.22, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-13" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 14" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-14">
<p>今村昌平, 「下北半島に建つ先輩監督川島雄三の碑」『遥かなる日本人』, p.41, 岩波書店, 1996 <a href="#user-content-fnref-14" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 15" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/vilhelm-hammershoi</guid>
    <title>『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』を読みました</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/vilhelm-hammershoi</link>
    <description>箱根のポーラ美術館に行ってきました。目的は、ヴィルヘルム・ハマスホイの作品を観ることです。 ハマスホイのことは、国立西洋美術館の売店で偶然見つけたポストカードで知ったのですが、以来、彼の作品の「静寂なる世界」に心惹かれていました。 彼の作品は、国内では国立西洋美術館に『ピアノを弾…</description>
    <pubDate>Sun, 25 Jun 2023 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>箱根のポーラ美術館に行ってきました。目的は、ヴィルヘルム・ハマスホイの作品を観ることです。</p>
<Tweet id="1667502431306149890" />
<p>ハマスホイのことは、国立西洋美術館の売店で偶然見つけたポストカードで知ったのですが、以来、彼の作品の「静寂なる世界」に心惹かれていました。</p>
<p>彼の作品は、国内では国立西洋美術館に<a href="https://collection.nmwa.go.jp/P.2008-0003.html">『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』</a>が収蔵されているのですが、残念なことに常設展示ではないため、興味を持ったタイミングで直ちにハマスホイの作品を直に鑑賞することはできず、鑑賞の機会をこれまで首を長くして待っていました。</p>
<p>ポーラ美術館にはハマスホイの<a href="https://www.polamuseum.or.jp/collection/020-0004/">『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ 30 番地』</a>が元々収蔵されており、開催していた展覧会『部屋のみる夢 ― ボナールからティルマンス、現代の作家まで』では更にもう 1 点、国立西洋美術館に収蔵されている『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』が展示されていました(!)。ようやくハマスホイの、しかも最初に興味を持った『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』も観られるということで嬉々として行ってきました。</p>
<p>この展覧会には大いに満足し、お土産には複製画と、今回紹介するハマスホイの作品集を購入しました。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![ポーラ美術館の展覧会『部屋のみる夢 ―
    ボナールからティルマンス、現代の作家まで』の看板](/static/images/Vilhelm-Hammershøi/IMG_3563.JPEG)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![展覧会『部屋のみる夢 ―
    ボナールからティルマンス、現代の作家まで』で展示されたヴィルヘルム・ハマスホイの作品の一覧。『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ
    30
    番地』と『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』についての情報](/static/images/Vilhelm-Hammershøi/IMG_3581.JPEG)
  </div>
</div>
<hr>
<p>さて、今回は出先で購入したハマスホイの作品集を読んで思ったことをつらつらと書いてみます。</p>
<p><a href="https://www.heibonsha.co.jp/book/b487311.html">https://www.heibonsha.co.jp/book/b487311.html</a></p>
<p>おそらく入門書と思われる本書ですが、私が美術全般について明るくないということもあり読んでいてとても知的刺激を受けました。</p>
<p>本書では、ハマスホイの作品の他、彼が影響を受けた画家のことについて図版付きで解説されています。つまり、ハマスホイの作品だけを見るのではなく、そのルーツとなる作品と比較することを促しています。</p>
<p>具体例をひとつ挙げると、『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ 30 番地』の頁には、隣にピーテル・ヤンセンス・エリンガの<a href="https://www.metmuseum.org/art/collection/search/333797">『読書する女性』</a>が紹介されています。そして、２つの作品のモチーフや構図が瓜二つであること、ハマスホイがこの作品の複製写真を所有していたことが指摘されています。加えて、ハマスホイがエリンガの作品を手本にして本作を制作していただろうということも本書では書いています。</p>
<p>過去の作品をモチーフや構図の手本にする、ということは当然行われることだと思いますが、「習作」といった題もついていない作品でここまでモチーフと構図を酷似させた作品を発表していることに、はじめ私は驚きました。</p>
<p>しかし思い返してみると、異なるジャンルになりますが音楽なら私もこれに類似した例を挙げることができるのでした。例えば、ストラヴィンスキーの『結婚』がその旋律や歌詞についてロシアの民謡・婚礼歌に近しい作品が複数存在することが指摘されていることや<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup>、同じくストラヴィンスキーの『プルチネルラ』がペルゴレージをはじめとした 18 世紀イタリア音楽の諸作を編曲して作られていることは以前から知っていました。そして、『結婚』や『プルチネルラ』とその元となった作品を聴き比べ、これらの作品が単なる編曲などではなく、ストラヴィンスキーの創造性が遺憾無く発揮された作品であることを確認したこともありました。</p>
<br />
<iframe
  style={{ borderRadius: '12px' }}
  src="https://open.spotify.com/embed/track/7wzpKWFjarY4OfKxLh2YVx?utm_source=generator&theme=0"
  width="100%"
  height="152"
  frameBorder="0"
  allowfullscreen=""
  allow="autoplay; clipboard-write; encrypted-media; fullscreen; picture-in-picture"
  loading="lazy"
></iframe>
<iframe
  style={{ borderRadius: '12px' }}
  src="https://open.spotify.com/embed/track/2sgMRL1IHhNytT5pFEQGhG?utm_source=generator&theme=0"
  width="100%"
  height="152"
  frameBorder="0"
  allowfullscreen=""
  allow="autoplay; clipboard-write; encrypted-media; fullscreen; picture-in-picture"
  loading="lazy"
></iframe>
<Caption>
  参考: ストラヴィンスキー『プルチネルラ』第1曲とガロ『12のトリオ・ソナタ 第1番』第1楽章
</Caption>
<br />
<p>更に話を脱線させていきます。</p>
<p>アニメ・漫画などのポップカルチャーのファンと関わったり彼らの投稿を眺めていると、作品同士を比較することを忌避する人を度々見かけます(「自分が楽しんでるならそれでいーじゃん!」「それぞれの好みを尊重しようよ」といったような主張をする人のことです)。複数の作品を比較して話すと、どうしても一方の作品を貶すことになりがちで(私は必ずしもこれを否定しませんが)、自身の好きな作品が否定的に扱われることが耐えられないといったことなのでしょうか。あるいはそのような話題を受け入れるとコミュニティがエリート主義的で排他的になることがあり得るため、コミュニティの存続あるいは拡大のためにそれを避けたい気持ちでこのような主張をするのかもしれません。とはいえ、自分が好きな作品のことを享楽的なものとして扱うような表現はしないほうが良いのでは、と思います。......</p>
<p>アニメ・漫画といったポップカルチャーにしろ音楽・美術といったハイカルチャーにしろ、私は単独の作品だけで十分な鑑賞体験を得ることはできないと考えています。それは、影響を受けた与えたといった縦のつながりや、同時代の作品同士といった横のつながりを知り、作品の相対的な立ち位置を知ることがその作品を深く知る鍵になると信じているからです。私がよく楽しんでいるストラヴィンスキーの音楽も、私がペルゴレージやバッハやワーグナーやドビュッシーを多少なりとも知っているからこそ彼の独自性を具に感じ取り(?)、彼の音楽を存分に楽しむことができるわけです。</p>
<p>評論家の吉田秀和は、ワーグナー以後の音楽を聴くにあたってはワーグナーを体験してひとつの基準とするべきと主張しています。作品同士を比較してワーグナー以後の作曲家にワーグナーが与えた影響を知ることが彼らの作品を深く理解する助けになるとするこのスタンスに(勿論ワーグナーに限らず他の影響力の強い作曲家や作品についても同様に)、私は全面的に賛同します。</p>
<blockquote>
<p>しかし、ヴァーグナーは、絶対に、きかなければならない。それでなければ、ブルックナー、マーラー、Ｒ・シュトラウスはいうまでもなく、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』も、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』ほかの諸作も、ベルクの『ヴォツェック』や『ルル』も、ヴェーベルンはもちろん、さらには、サティの『ソクラテス』も、ピエール・ブーレーズの『主なき槌』も、逆な現われ方としてのストラヴィンスキーの『春の祭典』も、みんな、ある大切な体験を素通りしたうえの新音楽になってしまう。</p>
</blockquote>
<p><Source>吉田秀和. 名曲三〇〇選　吉田秀和コレクション (Japanese Edition) (p.190). Kindle 版.</Source></p>
<br />
<p>閑話休題、本書を読む前もハマスホイの作品は漠然と好きでいくら眺めても飽きないものでしたが、本書でハマスホイの作品と元となった作品を比較することで、彼の独自のモノクロームな配色や極度に生活感を排除した室内画の静謐さをより鮮明に意識できるようになり、絵画を楽しむ視点が広がったと感じています。また、ハマスホイが影響を受けたとされるベルギー象徴画やオランダの風俗画についても早晩調べてみようかなと思います。</p>
<p>今まで触れたことのない分野について勉強してみると、新しい知識を得られるばかりでなく、既知の事柄についても普遍化、抽象化する機会になる、今回の場合では作品を比較することの重要性を改めて言語化する機会になりました。</p>
<p>これからも日々知識を積み上げ、比較し言語化していくことで作品の価値を発見する営みを大事にしていきたいものです。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-1">
<p>Dmitri Pokrovsky, Pokrovksy Ensemble のアルバム"Stravinksy: Les Noces ("The Wedding") and Russian Village Wedding Songs"のライナーノーツ参照 <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/creating-my-own-blog</guid>
    <title>ブログを始めました</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/creating-my-own-blog</link>
    <description>ブログ開設に伴う所信表明。</description>
    <pubDate>Sun, 28 May 2023 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>「気がついた！」</p>
<p>唾を飛ばすな。</p>
<p>「どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら！」</p>
<p>ハルヒは白鳥座 α 星くらいの輝きを見せる両眼をまっすぐ俺に向けていた。仕方なく俺は尋ねる。</p>
<p>「何に気付いたんだ？」</p>
<p>「ないんだったら自分で作ればいいのよ！」</p>
<p>「何を」</p>
<p>「部活よ！」</p>
</blockquote>
<Source>
  谷川 流. 涼宮ハルヒの憂鬱 (「涼宮ハルヒ」シリーズ) (Japanese Edition) (p.44). 角川書店. Kindle 版.
</Source>
<br />
<p>私も涼宮ハルヒに倣い、私の求める機能を満たすブログを自分で作ってみることにしました。</p>
<hr>
<h2>なぜ今、自作ブログなのか</h2>
<p>ご存じの通り、ブログサービスは無料のものがいくつも提供されています。にも関わらずあえて(意図して、強いて)自作するに至った理由を簡単に説明します。</p>
<h3>既存のブログサービスへの不満</h3>
<p>まずはじめに、<strong>なぜどのブログサービスも白背景なのか、</strong> という点を問いたい。問い詰めたい。小 1 時間問い詰めたい。</p>
<p>真っ白な画面を直視し続けると眼精疲労で頭痛になり寝つきも悪くなるので、まとまった時間をかけて文章を読む場合に白背景は向かないと思っています。私はブラウザは Safari か Firefox を主に使っており、どちらも Web ページの背景色を書き換えて黒背景にする拡張機能または設定を使用していますので個人的に大きな問題はないのですが、やはり、はじめから黒背景を想定した Web デザインの方が好ましいと思います。また、押し付けがましいですが、今まで黒背景にあまり触れて来なかった人にとって私の作成したブログが黒背景に触れる機会になればいいなという野心を持っています。</p>
<p>既存の多くのブログサービスは執筆環境にも不満があります。Web 上のエディタはどうしても動作が一定程度重くなりますし、ネットワーク接続が切れると作業が強制的に中断されたり、データが適切に保存されない可能性があります。記事データが各種ブログサービス内にあるとローカルにバックアップを取ったり別のサービスに投稿し直す作業も手間がかかります（この点は各サービスとも改善が進んでいるようです）。Zenn の場合は<a href="https://zenn.dev/zenn/articles/connect-to-github">GitHub と連携してローカルのエディタで執筆することが可能</a>で、これは非常に魅力的な機能と言えます。そのため、今回同じ手法で執筆、記事の管理ができるようにしています。</p>
<p>また、記事そのもの以外にも、編集履歴も残したいと考えています。基本的にどのブログサービスも投稿後の記事編集が可能ですが、投稿日と別に更新日が記載されたり、差分を確認できるサービスを提供しているのは Qiita だけのようです。これも魅力的な機能なので今回(簡易的ながら)採用しています。記事のフッターから GitHub 上の該当の.mdx ファイルを確認することができます。編集履歴はこちらからご参照ください。(なお、ブログ作成中の Bad な状態のコードを隠すために、ブログ完成以前のコミットは削除しています)</p>
<p>ここまで、機能的には Qiita と Zenn は光るところがあるのですが、これらは IT エンジニアが知識を共有する場を提供するサービスであり、記事のジャンルが限られる点が障害になります。私は IT 系の話に限らず、アニメや映画の感想、日記も投稿するつもりなので、前述のブログサービスは不採用になります。</p>
<p>以上から、これらの不満を解消するため、以下の要件を満たすブログを 「自分で作ればいい」 という結論に至りました。</p>
<ul>
<li>背景色に黒を選択可能にする</li>
<li>ローカルエディタで執筆</li>
<li>記事は Git でバージョン管理、Git を公開する</li>
</ul>
<h3>技術的関心</h3>
<p>私は本職でプログラミングに触れる機会があまりありません。しかし、プログラミングが今日の社会において非常に重要な技能であることを意識し、またオタク気質の私にとって相性が良さそうだということもあり、今年から新しい趣味としてプログラミングに挑戦しています。その課題として、ブログ作成を選定した側面もあります。</p>
<p>ブログを自作する簡単な方法として WordPress を使うことも考えられますが、技術力を伸ばす機会として捉え、最近のフロントエンド開発でよく使用される以下の技術を採用することにしました。Next.js、Docker(加えて、今回は最終的に不採用となりましたが、GitHub Actions)と最近のフロントエンド開発でよく使用されていると思われる技術をまとめて触る良い機会にできました。</p>
<table>
<thead>
<tr>
<th>種別</th>
<th>詳細</th>
</tr>
</thead>
<tbody>
<tr>
<td>コード管理</td>
<td>GitHub</td>
</tr>
<tr>
<td>開発環境</td>
<td>Docker</td>
</tr>
<tr>
<td>ホスティング</td>
<td>Vercel</td>
</tr>
<tr>
<td>ブログ機能</td>
<td>Next.js</td>
</tr>
<tr>
<td>テンプレート</td>
<td><a href="https://github.com/timlrx/tailwind-nextjs-starter-blog">timlrx/tailwind-nextjs-starter-blog</a></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>今後もデザインやホスティング先、デプロイ方法など変更したい要素はありますのでそれらを更新した際には記事にするかと思います。後述する注意事項を意識しつつ、他の人に理解されるような記事を作成することで、自分自身の理解が深まることを期待しています。</p>
<h3>「ファスト」な投稿を見ない、しない</h3>
<p>私はここ数年、Twitter やその他 SNS で話題になっている投稿を見ないことと、話題に関連する投稿をしないことを心がけています。</p>
<p>Twitter やその他の SNS を利用していると、話題の出来事について即座に反応している人を多く見かけます。しかし、そのような「ファスト」な投稿を読むとどうしても物事に対して思慮の浅い感情的な判断を下す癖がついてしまいますし、「ファスト」な投稿をすることは、感情に支配された思慮が浅く確認が不足している表現を撒き散らすことになります。</p>
<p>この問題は Twitter や Instagram 等以外のプラットフォームサービスにも当てはまります。例えば、Note のトップページを見てみると、Twitter で話題になったことに対しての「ファスト」な感想・意見の投稿がおすすめされていますし、通知欄には「〜に関しての記事を書いてみましょう!」なんてキャンペーンの告知が頻繁に出てきます。長文を投稿することを想定したサービスなのでゆったりした場なのかと思いきや、ここも Twitter に負けず劣らず「ファスト」な投稿を読み書きするよう誘導してくる場になっていることが伺えます。</p>
<p>ですので、Twitter や Instagram 等だけが控えるべき「ファスト」な場というわけではなく、控える対象は全てのプラットフォームサービスということになります。</p>
<p>結果、各種プラットフォームサービスと距離を置いた(「ファスト」でない)インターネット上の場として、個人ブログを運営してみる、という結論に至りました。世間の話題と距離を置き、できる限りよく確認した上で投稿するように気を付けつつ運用してみたいと思います。</p>
<hr>
<p>ブログの具体的な作成方法については、<a href="https://reiji990.blog/blog/how-to-create-a-blog">別記事</a>にまとめましたので良ければこちらもご覧ください。</p>]]></content:encoded>
  </item>

    </channel>
  </rss>
