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      <title>調和と変革</title>
      <link>https://reiji990.blog/blog</link>
      <description>本とアニメと音楽について</description>
      <language>ja</language>
      <managingEditor>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</managingEditor>
      <webMaster>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</webMaster>
      <lastBuildDate>Wed, 31 Dec 2025 00:00:00 GMT</lastBuildDate>
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    <guid>https://reiji990.blog/blog/anime_2025</guid>
    <title>2025年に観たアニメ</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/anime_2025</link>
    <description>『まほプリ2』、『mono』、『MBW』、『わたなれ』</description>
    <pubDate>Wed, 31 Dec 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>日記</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>私はアニメについては評価された過去の作品を観ることが多く、あまり新作アニメを追いかけるオタクではないのですが、今年は割とコンスタントに新作アニメを観ていたので、折角なので一言ずつコメントしていこうかと思います。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>『魔法つかいプリキュア！！～MIRAI DAYS～』</h2>
<YoutubevideoPlayer id="Mdr0WF5pPgI" />
<p>前作の『まほプリ』は初めてBlu-ray Diskを購入したTVアニメで、非常に思い出深い作品です。前作は穏やかな作風でありつつも、精緻に組み上げられた世界観の設定語りが本当に心地よく、何度観ても面白さが色褪せません。『まほプリ２』も前作に劣らない穏やかな作風と精緻な構成が面白かったです。</p>
<p>本作の物語で一番良かったのは最終回で十六夜リコがナシマホウ界での出張授業をすることを決めた下りですね。今回の敵はナシマホウ界に住む魔法使いのルーツを持つ遺児（アイル）の孤独を利用していました。この原因となった事象（現実においても限りなく同じことが起こっていることは言うまでもないことですね）への対応としてナシマホウ界で魔法の授業を行うというのは、物語冒頭から朝日奈みらいが行っていた今起きているトラブルへのその場しのぎの対応とは反対の、世界に不幸が生まれること自体を減らしうる活動ということで、とても快く感じる結論でした。</p>
<h2>『mono』</h2>
<YoutubevideoPlayer id="OssMWb7KIO8" />
<p>本作は『ゆるキャン△』原作を手掛けたあfろの作品の新しいアニメ化ということでアニメ化発表以来楽しみにしていました。原作者以外に注目していたのは、キャラクターデザイン兼総作画監督の宮原拓也です。氏の仕事では、『アイカツスターズ！』第100話の原画の仕事が印象的で、この回の原画を含む同人誌をいつぞやのコミケで入手したなあ、なんてことをスタッフ情報を眺めながら思い出していました。</p>
<p>360度カメラ風の表現も面白いものでしたし、キャラクターの動きもとても心地よい作品だったと思います。</p>
<p>最近はアニメスタジオが原画を積極的に公開しており、作画オタクとしても嬉しいところ。斎藤圭一郎も原画として参加していたんですね。</p>
<p><a href="https://www.soigne.co.jp/special/mono-weekend/">mono - Special｜アニメーションスタジオSoigne(ソワネ)</a></p>
<h2>『前橋ウィッチーズ』</h2>
<YoutubevideoPlayer id="8Gu3c1rKakQ" />
<p>本作で特に良かったのは第６話から第８話の三俣チョコと北原キョウカのエピソードですね。</p>
<Tweet id="1924131529879650795" />
<p>（𝕏のポストは表記がブレていたので若干修正して書き直します）</p>
<blockquote>
<p>前橋ウィッチーズ第７話冒頭の老人の願いは、認知症にかかり被介護者となることで失った尊厳を回復するためのものだった。三俣チョコの祖母が医療機関でのリハビリを嫌がった理由は、三俣チョコ以外の人の前では努めて元気な姿を演じている様子から、他者に弱い姿を晒すことが尊厳を損なうことだとしてそれを避けたかったのだと思われる。尊厳を保持したい祖母の思いのために自宅介護と家事に忙殺される日々が始まったと（本人は）認識しているからこそ、三俣チョコは老人の尊厳を回復するための願いを「あんな願い」と言った。老人の願いは今この瞬間に尊厳を回復するための間に合わせの策であって（三俣チョコが指摘するように）恒久的な解決にはならないが、同じく三俣チョコの抱える問題の解決に寄与しない、赤城ユイナと苦しみを分かち合った時間が三俣チョコを回復させる。</p>
</blockquote>
<p>家族が作る環境によって介護と家事とバイトに忙殺される三俣チョコと、家族に望まない生き方を要請される北原キョウカの二人が（赤城ユイナの助けで）手を取り合い、この時点で問題は何も解決しないけれど、お互いの弱さを受け止め合って精神を回復させていくストーリーはとても美しいものでした。</p>
<blockquote>
<p>マイ「一件落着ってこと？」<br/>
アズ「実際、特に何も解決してないけど」<br/>
ユイナ「だね。でも、解決はしなくても、解決できることってあると思う」<br/>
マイ・アズ「？」<br/>
ユイナ「だってほら、みんなピカピカ明るいよ！」</p>
</blockquote>
<p><Source>TVアニメ『前橋ウィッチーズ』第８話（2025年）</Source></p>
<p>ところで、この二人の悩みは『わたなれ』の王塚真唯・瀬名紫陽花の問題意識に似ていますね。<a href="https://reiji990.blog/blog/watanare02">（『わたなれ』の記事はこちら。）</a></p>
<p>『わたなれ』には夏クール以降どハマりしているのですが、思えば『MBW』の良質なストーリーを観ていたからこそ『わたなれ』で似た事象が語られた時により深く感じ入っていたのかもしれません。</p>
<h2>『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』</h2>
<YoutubevideoPlayer id="rV_lQGGtPt0" />
<p>本作がどのような物語だったかについては計20,000字以上書いてきましたが（<a href="https://reiji990.blog/blog/watanare">記事１</a>、<a href="https://reiji990.blog/blog/watanare02">記事２</a>）、あれだけの物語をあくまでもおバカなラブコメとして世に出し、そしてちゃんと楽しかったことには感動します。本作をストーリーに特段意味がないものとして受け取り、それでいて楽しんでいた人たちもそれなりにいたようで、そういった反応を観測したときはどちらかといえば嬉しく思いました。幼少期ぼんやりとを観ていた子供番組を改めて鑑賞した時にストーリーに驚くなんてのはよく聞く話ですが、その前段をやっている人たちがいるなあと。</p>
<p>秋クールから『わたなれ』のオタクが順当に某百合アニメに移行していることは観測していましたが、私はまだ『わたなれ』と向き合う時間が必要で……、結局秋クールは『わたなれ』および続編である『ネクストシャイン！』を繰り返し鑑賞していたら終わってしまいました。</p>
<p>『わたなれ』はモデル地巡りもしました。あじれな家出旅行と同様に網代温泉の旅館に泊まり、網代・伊豆多賀を歩いていました。動画で撮影したので、いずれVlogにしようかなと思います。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![網代駅](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230245.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![網代駅から見える景色](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230556.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![大成館](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230631.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![国道135号](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230527.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![伊豆多賀駅](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230219.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![網代駅ホーム](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20251231/20251231230316.jpg)
  </div>
</div>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/watanare02</guid>
    <title>『わたなれ』が批判する「普通」について</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/watanare02</link>
    <description>ヒロインたちを縛る家族規範の問題と、甘織れな子が恋人関係を望んだ必然性について、『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!（※ムリじゃなかった!?）』第４巻の構造を整理する。</description>
    <pubDate>Sun, 30 Nov 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>精読</category><category>わたなれ</category><category>アニメ</category><category>ライトノベル</category>
    <content:encoded><![CDATA[<YoutubevideoPlayer id="CyrUp4JtQoQ" />
<p><a href="https://www.shueisha.co.jp/books-cbs/c2082/c166-13771/">https://www.shueisha.co.jp/books-cbs/c2082/c166-13771/</a></p>
<p>※これは『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!（※ムリじゃなかった!?）』第４巻の構造を網羅的に整理することを目指した記事になります。第４巻の前段である第１巻〜第３巻の内容にはもちろん触れますが、それ以外に第４巻を映像化したTVアニメ第13話〜第17話およびその総集編『ネクストシャイン！』で追加された演出、台詞等にも言及しますし、第５巻〜第８巻および短編集の内容も参照します。この記事で言及する王塚真唯と瀬名紫陽花の悩みがどのように解釈されるかという点については<a href="https://reiji990.blog/blog/watanare">前回の記事</a>もご参照ください。</p>
<p>サムネイルに使用している写真はモデル地となった幕張メッセです。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>甘織れな子が捨てた（捨てさせた）「普通」とは何か</h2>
<p>本作第４巻の終盤では「普通」という言葉が象徴的に使われます。また、『ネクストシャイン！』のメイン・テーマでも「『普通』じゃない物語」という歌詞がサビの終わりに使われており、本作の制作者たちがこの言葉を重要視していることが窺えます。今回はこの言葉を軸に『わたなれ』を読んでいきます。</p>
<p>王塚真唯と瀬名紫陽花の二人から告白を受けた甘織れな子は、どのような答えを出すかを悩んでいました。二人の思いを真摯に受け止め、思考を巡らせる中で、甘織れな子は自身のこれまでの振る舞いを再解釈します。<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup></p>
<blockquote>
<p>　——わたしは人に好かれたいんじゃない。<br/>
　誰かの特別になりたいだとか、親友がほしいとか、一番になりたいとか。<br/>
　そんな大それた願いはずっと噓だったのだ。<br/>
　誘われる際にメンバーに入れてほしい。場にいることを許されたい。わたしが喋ったことをみんなに聞いてほしい。したことへの反応がほしい。<br/>
　それって、ぜんぶ、ようするに——。</p>
<p>　——ただ、<Dots>人に嫌われたくないだけだったのだ</Dots>。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 22). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>甘織れな子は「誰からも嫌われない」ための方法は「普通」になることだと考えていました。そして、「普通」であることは、「みんなと一緒」であることだと説明します。</p>
<blockquote>
<p>　もし本当に、誰からも嫌われない方法があるとしたら、それはひとつだけ。<br/>
『普通』になることだ。<br/>
　好きなものも一緒、嫌いなものも一緒、なにもかもみんなと一緒になれば、周りから叩かれることはなくなる。無敵のバリアの完成だ。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 351). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>「みんなと一緒」であり続けようとする、ということは、不特定多数の他者からの評価を意思決定の基準に置くということです。他者からの評価を維持し、失わないよう努めること。これを目指すことが甘織れな子の「普通」であるということです。</p>
<p>第４巻の終盤で、甘織れな子はこの「普通」を捨て、「『普通』じゃない」選択肢、すなわち王塚真唯と瀬名紫陽花の両者と交際すること、二股をかけることを選びます。</p>
<blockquote>
<p>「だからわたしは『普通』なんて、いらない」<br/>
　胸に手を当てて、宣言する。<br/>
「どっちのことも選ばないんじゃない。ちゃんと、ふたりとも選ぶ。すごく<ruby>贅沢<rt>ぜいたく</rt></ruby>なのはわかってる。けど、わたしは、真唯と、紫陽花さん。ふたりと、ひとりひとりと付き合いたい」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 363). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>この決断があまり一般的な発想でないことは多くの方が同意することだと思います。三人での交際が始まった第５巻以降は、三人がこの関係を周囲に隠しながら恋人としての行為を愉しむエピソードを挟みつつ、関係を知った周囲の人たちの反感に立ち向かうストーリーが組み立てられます。甘織れな子が中学生の頃に憧れていたような、恋人とのデートの写真をSNSに投稿してちやほやされるようなことは当然ありません。甘織れな子の決断は、他者からの評価を意思決定の基準から切り捨てるということでした。</p>
<p>そして、甘織れな子の決断は、王塚真唯と瀬名紫陽花に対しても「普通」を捨てることを求めます。しかし、王塚真唯と瀬名紫陽花にとっての「普通」は、他者評価を意思決定基準に置くということではあっても、その他者は「みんな」（不特定多数）ではありません。では、その対象はなんでしょうか。</p>
<h3>王塚真唯にとっての「普通」</h3>
<p>王塚真唯にとって、他者評価に影響されて生きることは、母の「生き方を模倣」するということでした。</p>
<blockquote>
<p>『人生は一度きり。私は後悔しない。あなたにも後悔をしてほしくはない。だから、行動は慎重になさい、マ・シェリ』<br/>
『……はい』<br/>
　それは何度も彼女が口にしている言葉だ。自分のために言ってくれている。だけど、それの本当の意味は——。<br/>
（あなたが願う『後悔しない生き方』というのは、つまるところ、あなたの生き方を<ruby>模倣<rt>もほう</rt></ruby>しなさい、ということなのではありませんか？）<br/>
　真唯は胸の内で問いかける。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 318). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>王塚真唯は母の手がけたブランドのモデルを務めていますが、身体条件が極めて厳しく評価されるモデルの世界で、彼女の肉体は海外で十分通用するものではありません。しかしながら母の求めに応じて、王塚ルネの娘という肩書きを使ってどうにか海外でもモデル活動をこなしていました。自身の実力以上の評価を母の権威によって与えられ、他者を蹴落とし仕事を勝ち取る日々。これは王塚真唯にとって、母が設計した人生を自身の肉体で演じるということでした。王塚真唯がこの現状に初めて反抗し仕事をサボった10歳の時の出来事を、王塚ルネは「反逆」と表現します。王塚ルネは自身が娘に対して権力を振るい、自身の支配下におくことを当然視しています。王塚真唯の生活において、彼女の意思は尊重されていません。</p>
<blockquote>
<p>「私には、自分がない」<br/>
　真唯はそう言った。<br/>
「いつだって私は、ママの望む『<ruby>王塚<rt>おうづか</rt></ruby>真唯』という人物を演じている。それはクイーンローズのスターモデルに相応しい女性だ。彼女は強く聡明で、この学校の皆に好かれている。立派な人物だと、私自身も思う」<br/>
　まるで他人の業績を語るような言葉だ。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (pp. 338-339). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>そして、母から要請されたモデルという仕事は、公私を問わず王塚真唯の行動基準を他者評価に強く依存させます。</p>
<p>国内外で精力的にモデル活動をこなすということは、人並みの生活をいくらか諦めるということです。珍しい生活が周囲に伝わることは腫れ物に触るような扱いを受けることに繋がります。ライバルを蹴落として仕事を勝ち取る世界を生きる以上、他者から恨みを買うことも珍しくありません。望まない羨望も恨みも、舞台に立つ以上は避けることができません。王塚真唯に母が用意した人生は、他者評価を避けることが許されない世界に彼女を縛りつけるものでした。</p>
<p>王塚ルネは仕事だけでなく私生活にも干渉します。王塚ルネは、王塚真唯が「普通」の恋愛（世間に気兼ねなく公表できるような、規範化された一対一の恋愛）をして、やがて結婚することを望みます。王塚真唯が恋活パーティを主催したことを知った時はそのことを咎め、恋愛の在り方に対して自身の考えを押しつけます。（この言動は芸能人がプライベートの行動によっても評価されてしまう仕事であることも原因にあるのでしょう。）プライベートにおいても、王塚真唯は母と他者からの評価のために生きることが要請されているのでした。</p>
<p>王塚真唯は母や世間から要請される生き方を強く内面化しており、そのことを「自分がない」あるいは鉤括弧付きの（つまり個人の識別記号ではなく注意語句として、ここでは表面的な人格を指す）「王塚真唯」と説明します。第１巻で王塚真唯が甘織れな子に求めた恋人という関係は、一対一であり、結婚（と出産）に紐づいたものだということが（冗談まじりに）語られていました。これは母や世間から求められた恋愛の在り方です。第２巻で琴紗月に精神的優位を取るために話した、「本当に正しいのは、敵がいない道」という話は、ビジネスで有効とされるブルーオーシャン戦略の概念を流用したものです。第３巻で瀬名紫陽花の恋路を応援するために話した、進化論と個人の変化を紐づけた話は、ビジネスに取り組む人の間に自己啓発として広まったクリシェです。これらの、規範的な恋愛の在り方や経済的合理性を追求した思考様式は王塚真唯が母と世間に求められた「王塚真唯」像です。甘織れな子に対する欲望も、友人達を思いやって掛けた言葉も、母と世間の求めを内面化しているからこそこのような表現になったのでした。</p>
<p>王塚真唯はこの規範的な欲望をぶつけることで第１巻で甘織れな子を傷つけます。以降甘織れな子に対する振る舞いを改めようと試みますが、母と世間に求められる「王塚真唯」を演じる（規範的な欲望を内面化する）限りそれは達成されません。そして、王塚真唯は自身が自立しておらず、母に生かされた身であると認識しているために、母に要請される「王塚真唯」を演じることを辞めることができません。こうして第４巻で王塚真唯は袋小路に入り身動きが取れなくなります。</p>
<blockquote>
<p>「私は環境に恵まれているからな。その礼はしなければならない。ママがなにかを要求したとして、断る理由も権利もないさ」<br/>
　真唯が長い脚を抱え、膝に<ruby>頬<rt>ほお</rt></ruby>を乗せる姿は、まるで幼児みたいだった。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 122). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>引用した地の文の「まるで幼児みたい」とは、王塚真唯が母の強い影響下にあること、自立していないことの表現です。</p>
<h3>瀬名紫陽花にとっての「普通」</h3>
<p>瀬名紫陽花にとって、他者評価に影響されて生きることは、「いい子」であろうと律しながら日々を過ごすことでした。これには、共働きの両親を助けるために母の代わりを務めることが含まれます。作中、この母の代わりという役割により瀬名紫陽花の日常生活は強く制限がかかっていることが度々描写されます。世話をしなければならない二人の弟は中々聞き分けのない子たちで何度も同じことを注意する日々。放課後に友人と遊ぶこともままならず、夏休みもずっと家で世話に忙殺されていました。このストレスは第３巻で爆発することになります。</p>
<blockquote>
<p>「といっても、バイトする時間なんて、ないんだけどねえ」<br/>
「そ、そうなの？」<br/>
「うん。夏休みだしね。お母さんの代わりに、弟たちの面倒見なきゃいけないから。遊びに行ったり、お外で働いたりとか、できないんだー」<br/>
「そう、なんだ」<br/>
「両親、共働きだから仕方ないんだけどね。今までずっとそうだったから」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 3
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 47). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>高校生のような、（多くの場合）被扶養者の立場にある年齢であれば、その人生は扶養者の生き方に否が応でも影響されます。親が自営業者や企業経営者の場合、家業の手伝いや、将来継ぐことを求められることもあるでしょうし、（勤務などで）親が家を不在にしがちであれば、親が行うべき（？）とされる家事や他の家族の面倒を見ることを求められるでしょう。被扶養者として生殺与奪の権を握られ、知識も十分ではないことの多い子供の立場では、扶養者の言葉、声色、表情などの表現や扶養者の作る環境は大きな影響力を持ちます。王塚真唯と瀬名紫陽花は、自身に与えられた環境を変えることもそこから逃げることもできないと認識しており、親に求められる、親の模倣、代行、再生産の道を歩んでいました。そして、それこそが二人にとっての、他者に求められる「普通」でした。</p>
<h2>既に「『普通』じゃない」友人たち</h2>
<p>本作には、物語当初からこの意味で「『普通』じゃない」道を歩んでいる登場人物がいます。甘織れな子の友人、琴紗月と小柳香穂です。</p>
<h3>琴紗月の場合</h3>
<p>琴紗月は、女手一つで自身を育ててくれた母が何度も恋愛に失敗し傷つく様を見つめ、やがて母の人生の再生産にならない人生を望むようになります。そうして感情を強く抑制して人を好きになることのないように日々を過ごすようになったのでした。</p>
<blockquote>
<p>　怖かった。いつか自分が、母のように愚かな女になってしまうことが。<br/>
　だから決めたのだ。<br/>
　恋が、私と家族を歪めるのなら。<br/>
　こんなもの。<br/>
　自分には、いらない。</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 8
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 254). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>琴紗月は、母の在り方が原因となって今の自身の在り方があると思われること、それぞれの在り方に因果があると他者に思われることを拒否します。母と自身は独立した個人である、そうあるべき、そうありたいということです。これは自身のアイデンティティを母に依存している王塚真唯と対照をなします。</p>
<blockquote>
<p>「やめて、母のなにかを見て、私を理解した気にならないで」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 2
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 114). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>そして、琴紗月は他者評価をまるで気にしていないことが度々描写されています。すなわち、琴紗月は親の生き方を再生産することを拒み、かつ親以外も含めた他者からの評価を気にせず、自立した個人として生きている（そうありたいと思っている）ということになります。</p>
<h3>小柳香穂の場合</h3>
<p>小柳香穂は、両親の離婚によって関わりの深い家族だった母と会うことがなくなり、更に父の再婚により家庭内での居場所を失います。すなわち、模倣するか否か以前に、参照する親を失い、強制的に「普通」からドロップアウトさせられます。</p>
<blockquote>
<p>「香穂ちゃんち、犬飼ってるんだ？」<br/>
「うんー。最近はまだまだ暑いから、家の中にいるよ。冬も寒くてかわいそうだから、家の中で飼ってる。パパが再婚してから、新お母さんにべったりだから、モケコはあたしに構ってくれる唯一の家族なんだ」<br/>
「重い……」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 103). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>その後<sup><a href="#user-content-fn-2" id="user-content-fnref-2" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">2</a></sup>はコスプレ活動に没頭し承認欲求を満たそうとしますが、レイヤー同士の人間関係やアンチの言葉に傷つき、他者評価に依存しながらコスプレ活動を続けることが困難になります。その対策として、かつての甘織れな子を範として、やりたいことを貫く強い自分を演じる（普段から陽キャのコスプレをする）ようになります。小柳香穂も、必ずしも自身で望んだことではないにしても、親の生き方の再生産の道を歩まず、他者評価の世界からも離れて生きる意思があることが描写されています。</p>
<h2>甘織れな子は「普通」か？</h2>
<p>ここまで確認してきた、四人の家族に関する状況を簡潔にまとめます。</p>
<ul>
<li>母を模倣する王塚真唯</li>
<li>母を代行する瀬名紫陽花</li>
<li>母の模倣を避ける琴紗月</li>
<li>参照する母を失った小柳香穂</li>
</ul>
<p>甘織れな子に対する恋を自覚したのは前者二人であり、二人は親の求めや環境の必然性から親の生き方の再生産の道を歩んでいました。</p>
<p>甘織れな子はどうでしょうか。甘織家の家族仲が極めて良好なことは毎巻描写されており、甘織れな子は高校生活の中で時間的、経済的に不満を感じている描写も特にありません（瀬名紫陽花の家出に同行した直後に家庭用ゲーム機が故障した時はさすがにお金の工面に窮していましたが、それでも生存や尊厳のための消費に制限は受けていませんでした）。親に生き方を強制されることも、親の作る環境から人生の選択肢が狭められることもない、その上家族間の関係も良好な、本作ではほとんど唯一の家族に対する問題意識のないキャラクターとして描かれています。王塚真唯や瀬名紫陽花のような、親に生き方の制限を受けているという意味での「普通」の立場にいないということです。</p>
<p>そして、甘織れな子は「普通」になりたいなどと客観的評価に拘っているようなことを言いながら、その実態は琴紗月や小柳香穂の側に近いことが第２巻と第４巻で語られます。</p>
<p>第２巻で、当初甘織れな子は琴紗月に言いくるめられて琴紗月一人の都合で契約交際を始めたと認識していました。しかし、終盤でこの交際は琴紗月一人の都合ではなく、甘織れな子自身も王塚真唯にささやかな復讐を遂げたいと思っており、琴紗月から評価されるためではなく自身の望みのために行動したのだと再解釈します。これは作中「<ruby>共犯者<rt>ともだち</rt></ruby>」という語で説明されます。</p>
<p>第４巻で、過去の小柳香穂が他者評価の世界から離れて生きることを目指した時、範としたのはかつての甘織れな子の在り方でした。甘織れな子は中学時代の人間関係のトラブルが原因で他者からの評価にひどく怯えるようになるのですが、かつてはごく短い期間の交友しかなかった小柳香穂が強く憧れる程に「『普通』じゃない」生き方を力強く実践していたのです。</p>
<h2>「『普通』じゃない」選択肢についての補足</h2>
<p>「『普通』じゃない」生き方を選んだ琴紗月は、告白への答えに悩む甘織れな子へのアドバイスとして、決断が後悔とセットであることを語ります。</p>
<blockquote>
<p>「人生とは、決断すること。神様じゃないんだから、未来なんてわからない。そうして選んだ道を、どうにかこうにか進むしかないの。後悔するとわかっていてもね」<br/>
　<ruby>含蓄<rt>がんちく</rt></ruby>ある言葉の響きに、背負っていたリュックがさらに重くなった気がした。<br/>
「……紗月さんは、大人ですね……」<br/>
「別に、私だってあなたと同じよ。後悔しながら生きてきたもの。真唯と同じ学校に行ったらぜったいに後悔するとわかっていたのに、行かないことを選べなかったように……」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 95). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>この台詞は先ほど引用した王塚ルネの「私は後悔しない」という台詞と対照をなします。王塚真唯に「普通」の生き方を求める王塚ルネと、「普通」の生き方を自発的に捨てた琴紗月で、同じ「後悔」という語を使って互いのスタンスを語っています。</p>
<p>王塚ルネは事実上王塚真唯に決定権を握らせないことで後悔しない人生を歩めるよう諭します。「私は後悔しない」という宣言は、自身の生き方を盲信するということ、後悔することを受け入れないということ、思考停止するということです。</p>
<p>一方で、琴紗月は、甘織れな子がいずれ行う決断に後悔はつきもので、それは受け入れるしかないのだと語ります。王塚真唯に「後悔をしてほしくはない」と語る王塚ルネの狙いが結局のところ世間（自分）にとって望ましい「普通」の選択肢に誘導することだった以上、それと正反対の「後悔するとわかってい」る道を選ぶという話は、「『普通』じゃない」選択肢を選ぶ可能性を甘織れな子に示唆します。また、決断とは意思決定である以上、思惟を前提とする言葉です。</p>
<p>本作の「普通」を選ぶか否か、という対立は、思考停止するか考えを巡らせるかの対立でもあるのです。</p>
<h2>「普通」を捨てる意義</h2>
<p>ここまで、本作について他の方が言及していないように見られた、ヒロインたちの家族に対する問題意識という切り口から本作の構造を書いてきました。ここからは、多くの人が言及する切り口で、第４巻のストーリーを確認していきます。</p>
<p>第４巻の甘織れな子の悩みは、どちらの告白に応じるか、ではなく、告白に応じること自体の恐怖でした。自分は容易に世間に否定される存在だから、目立つ行動をとってそれを否定的に評価されたくないということでした。それは告白をしてくれた相手ではなく、そのやりとりを評価する世間のことを気にしているということです。甘織れな子が告白されたことを受け入れられないことは、大切に想っている王塚真唯と瀬名紫陽花への想いよりも世間の評価を重要視することを意味します。しかし、甘織れな子にとって大切なのは不特定の誰かではなく王塚真唯と瀬名紫陽花です。二人を大切に想うのであれば、他者評価に縛られて生きることはできないのです。</p>
<p>甘織れな子は小柳香穂が実践している強く生きる演技を催眠音声で擬似体験し、実感を伴って小柳香穂を見つめることで、強く生きる必要性と相手を大切に想うなら何をしなければいけないのかに気付き、「普通」を捨てる覚悟を決める、というのが第４巻のストーリー（登場人物の変化）になります。</p>
<p>小柳香穂も同様に、コスプレが世間から評価されることが前提となる趣味であるために、逃れられない世間の評価を恐れて幕張コスプレサミットへの出場を躊躇していました。しかしながら、小柳香穂にとって大切なのはアンチやライバルや心ないコメントをする不特定の誰かではなく、ファンであり、コスプレの対象とした作品であり、それを愛する自分自身でした。</p>
<blockquote>
<p>「絵を描けるわけでも、文章を書けるわけでもないあたしが、作品への愛を表現するための手段。それがコスプレだったんだ。以降すっかりコスプレにハマっちゃって」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 4
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 111). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>アニメ版では、限られた尺の中で本作が何を語っているのかを端的に説明するために以下引用符部分の台詞が原作から追加されています。</p>
<blockquote>
<p>れな子「今ようやく魂でわかったよ！　“他人なんて気にしなくていいって！”」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第16話（2026年）
</Source>
<p><a href="https://www.watanare-anime.com/next-shine/">https://www.watanare-anime.com/next-shine/</a></p>
<p>『ネクストシャイン！』のキャッチコピーは「わたしはわたしを、好きになりたいから！」。自身を好きになることは、他者評価に関係なく自身を肯定できるようになることです。甘織れな子と小柳香穂は、他者評価を意思決定基準から外すこと、自己評価が他者評価に縛られないようになることで、実質的に自身を好きな状態になります。そうして小柳香穂は幕張コスプレサミットに参加し、甘織れな子は王塚真唯と瀬名紫陽花の告白に返答する勇気を手に入れます。</p>
<h3>王塚真唯と瀬名紫陽花が陥った状況</h3>
<p>王塚真唯と瀬名紫陽花も、告白の答えを待つ内に、甘織れな子に似た悩みを抱えるようになります。</p>
<p>王塚真唯は、大切に想っている甘織れな子と瀬名紫陽花のどちらからも嫌われたくないと思った時から、自分が望む結末が分からなくなり、行動できなくなり、二人を避けるようになります。これは、第４巻で極端に出番が減る、という形で表現されます。また、一人で屋上に居たシーンは第１巻で甘織れな子がコミュニケーションに限界を感じて屋上へ逃避したシーンの反復ですし、三人での遊園地デートのドタキャンも予め決めていたことでした。これは甘織れな子が告白に回答する恐怖に立ち向かう「回り道」として小柳香穂に接近したことに少し似ます。しかし、王塚真唯の行動は甘織れな子の「回り道」とは違い、決して戻ってくることのない逃避でした。アニメ版ではこれを端的に表現するため、王塚真唯がフランスへ移住する計画を立てていた、という改変がなされます。</p>
<p>瀬名紫陽花は、王塚真唯を心配するあまり、甘織れな子が自分ではなく王塚真唯を選ぶことを望むようになります。これは、甘織れな子を想う気持ちよりも王塚真唯を案ずる気持ちを優先するということであり、甘織れな子がはじめ（実質的に）二人よりも世間の評価の方を気にしていたことに似ます。</p>
<p>他者評価に縛られた生き方を選べないことを自覚した甘織れな子は、いち早くこの迷路（他者評価に縛られた世界）から抜け出し、告白してくれた二人と向き合い、「『普通』じゃない」選択肢を提示し、二人を他者評価の世界から引き上げます。そして、それこそが、王塚真唯と瀬名紫陽花にとって真に必要なものだったということが第５巻以降で語られます。</p>
<h2>恋人と友達をめぐる思索と（現時点の）結論</h2>
<p>次に、これも多くの方が本作に絡めて言及している、友情と恋愛に関する思索について書いていきます。</p>
<p>本作では、甘織れな子が友情と恋愛の判別が得意でないことがヒロインたちから度々指摘され、甘織れな子は幾度も友情と恋愛について言葉を重ねて理解しようと努めます。</p>
<p>第６巻で、甘織れな子は琴紗月に促されて辿々しく友情と恋愛に関する思索の成果を話します。これを簡潔にまとめると、①人は人を大切に想うことがありうる、②その想いの在り方を人は友達や恋人や家族<sup><a href="#user-content-fn-3" id="user-content-fnref-3" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">3</a></sup>と名付けて分けたけれど、③本質的にはあまり差は無いのではないか、というものでした。（なお、甘織れな子は第３巻でも概ね同じ内容を話していますので、第４巻時点で既にこの発想に辿り着いているものと思われます。）</p>
<p>甘織れな子の言葉を受けて、琴紗月は、恋愛とは自分たちの関係を自分たちがその名で定義することでのみこの世に存在しうる概念なのだと理解します。</p>
<blockquote>
<p>「……逆に言うと、体感している最中にそれが恋愛かどうかはわからなくて、あやふやな感情に名前を付けた時点で、それが恋愛だと定義されるってこと……？」</p>
</blockquote>
<Source>
  みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?） 6
  (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 224). 集英社. Kindle Edition.
</Source>
<p>この発想は、恋人という関係が従うべきとされる規範を解体する働きがあります。</p>
<p>世間では、恋人と呼ばれる関係には大切に想い合うこと以外にも他の関係と分ける要素が存在するとされます。一対一の関係であること、交際が続けばいずれ結婚し家族になることが想定されること、等々。それらが満たされることを条件に、交際関係にある二人は世間から肯定的に評価されます。王塚ルネが娘の王塚真唯に求めたのはまさにそのような恋人でした。王塚真唯も母の求めを内面化しており、甘織れな子にそのような恋人の在り方を提示するのでした。</p>
<p>甘織れな子は、恋人という関係に世間が要請するこれらの要素を重要視していません。</p>
<p>第１巻で甘織れな子は王塚真唯が提案する恋人という関係を最後まで拒みました。王塚真唯のことを大切に想っていることを認め、性的な接触を一定程度許容する姿勢を見せつつも、二人の関係を恋人と名付けることを拒否しました。この理由は、第１巻から第２巻において、王塚真唯が冗談まじりに話す結婚や出産の提案に甘織れな子が時に恐怖しつつ、徹底して拒絶していることから読み解くことができます。「恋人ってまだ、よくわからない」という断り文句は、友達と恋人の判別がついていないことの告白であるのと同時に、王塚真唯が提示した規範的な恋人関係の在り方に同意できないということでした。</p>
<p>世間が要請する標準化され共同体的に決定されたカテゴリーとしての恋人の在り方を捨象して、自分たちの関係を恋人と定義したいという発想が、第４巻の甘織れな子の結論になります。</p>
<p>世間に広く普及した恋人の在り方に従わないとすると、甘織れな子が提案した「恋人」は何を意味していたのでしょうか。</p>
<p>甘織れな子と二人のヒロインそれぞれとのやり取りの中で、性的な接触をゆるすか否かが恋人と友達の明確な違いだということが共通して語られており（第１巻と第４巻におけるキスの扱いが当てはまります）、その点は全員が同意していました。そして、この他に三人全員が同意する恋人の要素はありません。世間が恋人と呼ばれる関係に要請する要素を捨てた上で三人の関係を恋人と定義することは、三人にとっての恋人の要素を、他の関係と比較して性的な接触が許容されることのみに設定することです。</p>
<p>甘織れな子は、これを承知して二人へ告白します。</p>
<p>なぜ、本作はこのような結論になったのでしょうか。</p>
<p>交際とは一対一の関係であり結婚と紐付くものだ、という規範に従うことは、恋人という関係を家族の前段に設定することになり、恋人を作ることと（ヒロインたちを苦しめている）既存の家族規範が接続されることになります。逆に、世間で家族の前段として扱われている恋人という関係から家族規範を再生産する要素を削ぎ落として恋人という関係を再定義すると、全く異なる意義を持って恋人という関係が浮かび上がります。</p>
<p>甘織れな子が世間的な規範に従わずに二人と交際することを提案することは、「ふたりのことを、幸せにする」手段として、再定義された恋人という関係を使用することを意味します。</p>
<h2>「親友じゃなくて、れまフレでもなくて、恋人に」なる必然性</h2>
<p>時折、第４巻ないしアニメ版の感想として、「二人への返答として、れまフレに類似した独自の関係を提示するのではいけなかったのか。恋人というラベリングが果たして必要だったのか」という反応を見かけることがあります。これは世間が要請する交際関係の在り方の問題点を把握しているからこそ生じた疑問だと思われますし、本作はそれを指摘しているのですから、この疑問が生じることは十分ありうることだと思います。しかしながら、ここまで書いてきた、ヒロインたちの抱える問題意識と甘織れな子が恋人という言葉を再定義したことから考えれば、甘織れな子はやはり恋人という言葉を選ぶべきだという結論になります。</p>
<p>そもそも王塚真唯は甘織れな子とれまフレという関係に落ち着くことを承諾していませんし、れまフレという関係は、甘織れな子が王塚真唯への想いよりも世間の評価を気にしている状態だったために提示した弥縫策なのですから、告白に真剣に返答するために自身を好きになった（他者評価を乗り越える強さを手にした）甘織れな子がその選択肢を選ぶ必要がありません。という説明も一応は可能です。ただしこれらは、れまフレを選ばない理由であって、恋人という関係を積極的に選ぶ理由にはなりません。甘織れな子は、自身が「願って、望んで」二人と恋人になりたいのでしたね。</p>
<p>第４巻の終盤で、甘織れな子は敢えて恋人という言葉を定義を変えて使います。甘織れな子の告白を受け入れると、「『普通』じゃない」形で恋人を作ることになりますから、甘織れな子と関係が続く限り王塚真唯と瀬名紫陽花は規範的な恋愛をする道を閉ざされることになります。そして、現代においては結婚にも性愛規範が絡みますから、甘織れな子の決断は二人を苦しめる家族規範を撹乱することでもあり、これは二人を本質的に救いだす可能性を作ります。これらは、恋人という言葉を使うからこそ達成されます。もし独自の言葉で三人の関係を作るとなると、二人は種々の規範を内面化し続けることになり、二人を苦しめている状況を変えることができません。</p>
<h3>アナロジーとしての「最小結婚」</h3>
<p>上述した内容については、エリザベス・ブレイクが提唱する「最小結婚」の説明が、よく似た論理構造を持ち問題意識も近いため理解の助けになるかと思われます。</p>
<p>「最小結婚」とは、結婚の定義を現在受け入れられている一対一の排他的な性愛に基づく関係からあらゆるケア関係へと拡張し、リベラリズムと適合する形へ結婚を脱規範化するというものです。これは、現在結婚というものに要請される規範が善き生にとって必要でないばかりか、その規範が他のケアの在り方を脅かす危険性があることを問題意識としています。その是正のために、制限と制約の最小化処理を施し、脱道徳化した結婚の形を提唱します。同性婚や近親婚、三者以上での結婚はもちろん「最小結婚」に含まれますし、そこに恋愛感情や性的接触や出産や育児の有無が問われることもありません。この「最小結婚」の提案は、大きく変更されたその関係をなぜ結婚と呼ぶのか、という反応を受けることが容易に予想されます。ブレイク自身、留保を設けつつもこれは「個人関係」と呼んでもよいと述べています。しかしながら、あえて結婚という言葉を使うことが、現在の結婚という言葉が持つ性愛規範的な差別を是正することにつながるとしています。</p>
<blockquote>
<p>改定された法的枠組みを〔あえて〕最小「結婚」と呼ぶ目的は、過去の国家による差別の是正にあるといえる。</p>
</blockquote>
<Source>
  エリザベス・ブレイク (著). 久保田裕之 (監訳)
  羽生有希・藤間公太・本多真隆・佐藤美和・松田和樹・阪井裕一郎 (訳) (2019).
  『最小の結婚——結婚をめぐる法と道徳』 (p. 310). 白澤社
</Source>
<p>そして、ブレイクは結婚という言葉を使わずに「個人関係」を法制化し結婚制度を廃止した場合においても差別は残ると主張します。結婚という言葉を無視するのでもなく、廃止するのでもなく、意味を拡張して使うことが差別の是正に有効だとしています。</p>
<blockquote>
<p>　そもそも結婚制度を廃止してしまえば、すべての人を対等な法的地位に置くことで平等を達成できると思われるかもしれない。しかし、結婚制度の廃止は、いまなお社会的に強力な結婚制度の手綱を、教会や商業的な「ウェディング・チャペル」その他の民間企業に譲り渡すことになるだろう。国家の関与こそが、社会的地位としての結婚への平等なアクセスを確保するのだ。結婚制度の廃止が民営の供給者によって人々が結婚制度に参入するのを否定してしまうのに対して、結婚の改革は平等なシティズンシップについての明示的なメッセージとなるはずである。</p>
</blockquote>
<Source>
  エリザベス・ブレイク (著). 久保田裕之 (監訳)
  羽生有希・藤間公太・本多真隆・佐藤美和・松田和樹・阪井裕一郎 (訳) (2019).
  『最小の結婚——結婚をめぐる法と道徳』 (pp. 311-312). 白澤社
</Source>
<p>甘織れな子が恋人を再定義することは、上に書いた「最小結婚」と同じ論理に基づいた効果を生じます。「最小結婚」が結婚という言葉が持つ要素を減らすように、甘織れな子の提案は、恋人という言葉が持つとされる要素を減らし、より多くの形がありうるように言葉を拡張し、家族規範に苦しめられる王塚真唯と瀬名紫陽花を規範を撹乱した世界へ導き、そうではない生き方がありうるのだと可能性を示します。</p>
<p>家庭が担っているとされる親から子への縦のつながりによる承認を家庭からは得られなかった王塚真唯と瀬名紫陽花は、甘織れな子から、縦のつながりを作る規範を撹乱され、性愛関係という横のつながりで承認を受けます。これは二人が囚われていた問題意識を上書きするということです。これにより二人の問題は是正されます。</p>
<h2>「普通」を捨てさせる意義</h2>
<p>第５巻以降の王塚真唯と瀬名紫陽花の行動から、三人で交際することが二人にどのような影響を与えたかを確認します。</p>
<p>三人で恋人になって以降、王塚真唯は自分たちの恋路を王塚ルネによって阻まれることのないように、王塚ルネを騙して三人の関係を守ろうと努めます。瀬名紫陽花も、親代わりにこなす家事で忙しいからと諦めていた、生徒会への入会を決意します（「瀬名紫陽花と、生徒会選挙」より）。「『普通』じゃない」道を選んだ二人は、親からの評価や家庭環境に縛られない生き方を模索するようになります。これらは二人の成熟として語られます。</p>
<p>王塚真唯については、欲望との向き合い方が大きく変わったことも特筆すべき点になります。第４巻で王塚真唯は初めて甘織れな子に涙を見せますが、これは、第１巻の「私は王塚真唯だ」「君に涙を見せるわけにはいかない」という台詞を参照して読むべき演出で、「王塚真唯」の仮面が剥がれたことの表現でした。規範的な恋愛をする道を閉ざされたことで、王塚真唯は母や世間に求められる「王塚真唯」像を演じることが不可能になりました。第５巻以降、王塚真唯は世間の規範や母の求めに縛られることなく甘織れな子に対する欲望に向き合うようになります。二人は話し合いながら、お互いの欲望を受け入れた交際の在り方を模索します。（e.g. 「おさわりタイム」）</p>
<p>甘織れな子の、「普通」を捨てる決断、二人に「普通」を捨てさせる決断は、王塚真唯と瀬名紫陽花を、二人が囚われていた、客観的評価のために行動しなければならない（親の生き方の再生産をしなければならない）という価値観から解放し、二人を成熟に向かわせるものでした。</p>
<p>これは二人の告白へ「普通」に答えること（片方と一対一の交際を行うこと）でも、あるいは「普通」の在り方に干渉せず代替案（れまフレ）を示すことでも辿り着くことはありえません。何故なら、二人が「普通」のままでいるということは、二人を苦しめる現象を作った規範に従うということであり、親の生き方の再生産の道を辿り続けるということであり、自身の問題意識から目を逸らし思考停止し続けることだからです。</p>
<h2>『わたなれ』がこれから語ると思われること</h2>
<p>最後に、王塚真唯と瀬名紫陽花が辿り着いた「『普通』じゃない」道を既に歩んでいた琴紗月と小柳香穂は成熟した個人なのか、というと決してそうではない、ということは付け加えておきます。</p>
<p>琴紗月が、母のようにはならないという意思決定の結果実行しているのは、感情の抑制、思考に一定のブレーキをかけるということでした。これは王塚ルネが「後悔しない」という語で示した、思惟を捨てた態度に少し重なります。琴紗月にはまだ成熟へ至るための決断する物語が与えられる余地が残されているのです。琴紗月の母への思いが断片的に語られたのは第８巻ですが、これは第９巻で琴紗月の母親に対する解釈に何らかの変化が生じることを期待させます。</p>
<p>琴紗月は第８巻で人が恋愛をすること自体を否定し甘織れな子と思想的に対立する立場を取り、恋愛に関する甘織れな子の決断を見定めて自身の糧にしようと企てます。この結末が語られるであろう第９巻で琴紗月が何を見つめどのような決断を下すのか、とても楽しみです。</p>
<p>小柳香穂については、そもそも現在の状況が自身で選んだものではなく、なんら決断を下していない段階ですので、こちらも今後、何らかの意思決定を行う物語が与えられることが期待されます。</p>
<p>本作は、第５巻以降にスポットライトのあたるヒロインたちも家族に対して何らかの問題意識があることが語られます。甘織れな子は、ヒロインたちと深く関わることで、現代におけるさまざまな家族の在り方と、それによって生じたヒロインたちが抱える問題意識を非当事者の立場から見つめることになります。そして、ヒロインたちは甘織れな子との関わりの中で何らかの決断を下し、家族との向き合い方を変えます。</p>
<p>全てのヒロインが自身の問題に決断を下すには、あるいは膨大な物語が必要になると思われますが（そもそもヒロインが増え続けているため）、全てが語られるまで原作が続くことを一読者として願わずにはいられません。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-1">
<p>本作では、甘織れな子が自身や他者のこれまでの振る舞いを再解釈し、その言語表現に従う形で意思決定する様子が繰り返し描写されます。これは甘織れな子が王塚真唯から受け取った美徳で、言語を誠実に運用することを心がけ、その結論が感情や常識に抗うことになったとしてもそれに従うという知的態度です。第１巻の甘織れな子は、王塚真唯からのアプローチに対して感情的に否定的な言葉（「ムリ」）を並べるだけでしたが、王塚真唯は辛抱強く、折衷案（「友達恋人の勝負」）を提示し、自身の欲望も求めに応じて言葉で伝え（「恋人リスト」）、誠実であることを（徹底できてはいなかったとしても）心がけながらアプローチしていました。この奇妙な口説き方や、欲望を直接伝えてきたことに、甘織れな子は動揺しますが、その言動に理があることをひとつひとつ認めてゆき、第１巻の終盤では琴紗月から「ちょっと真唯に似てきてる」と評されるほど、王塚真唯に影響を受けて変化しています。甘織れな子は、琴紗月から王塚真唯の状況を聞かされ、彼女が企図する性的な自傷行為を止めることを決意します。王塚真唯に「傷つけられた」にもかかわらず、（琴紗月のように）復讐しなかったのは、自身がそう在りたいと願う「理想の親友像」に従うことにしたということです。これはまさに、王塚真唯が甘織れな子に対して実践してきた、誠実に言葉を紡ぎ、その言葉に従い行動を律する知的態度です。この変化は甘織れな子が「『普通』じゃない」決断を下す前提になっています。第４巻で王塚真唯を救いだしたのは、他でもない彼女自身が持っていた、そして甘織れな子に与えた美徳だったのです。 <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-2">
<p>原作とアニメ版では、小柳香穂がコスプレを始めた時期が異なります。原作では父が再婚した後に一人でコスプレを始めますが、アニメ版では（小柳香穂が改姓した理由は語られていませんが、原作と同様に小柳家で離婚・再婚があったと仮定すると）両親の離婚前に母と共にコスプレを楽しんでいる（と解釈可能な）姿が描写されています。これは、先ほど台詞を引用した、王塚真唯と王塚ルネの会食シーンおよび小柳香穂が家庭環境を説明する台詞がアニメ版でカットされているのと同様に、本記事で中心的に述べている家族周りの表現をアニメ化に伴いマイルドな表現に変更する演出方針の一つと思われます。その結果、アニメ版は本記事が述べる構造を成しておらず、よりシンプルな「甘織れな子と小柳香穂の意思決定基準の移行とその成果としての三人の恋愛成就」の物語として再構成されています。 <a href="#user-content-fnref-2" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 2" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-3">
<p>この台詞は、これまでの物語で大切に想っているヒロインたちとの関係を「友達」と「恋人」の二択で考えていた甘織れな子が、大切に想い合う関係に「家族」という選択肢を追加したことも重要な点になります。第６巻でスポットライトがあたるヒロインは甘織れな子の妹（家族）の甘織遥奈ですから、ここで「家族」という選択肢が追加されたことは（家族である妹と家族以外の関係になることはないと甘織れな子は想定しており、且つ妹のことを大切に想っているため）自然なことなのですが、同時に、本作が世間的な家族の在り方から生じる問題視される現象だけでなく、成員同士が大切に想い合う関係として家族というものが存在しうる（し、おそらくは甘織遥奈以外のヒロインも家族をそのように解釈することがありうる）ことを本作（おそらくは第２シーズン）で語ることを宣言しています。 <a href="#user-content-fnref-3" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 3" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/watanare</guid>
    <title>『わたなれ』で反復される「赦し」について</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/watanare</link>
    <description>TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』における恋愛の機序の整理</description>
    <pubDate>Sun, 26 Oct 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>精読</category><category>わたなれ</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<YoutubevideoPlayer id="fF-XcpHbYfo" />
<p>※これはTVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第12話までの内容についての記事になります。執筆時点では第13話以降は未公開ですので言及しておりません。ただし、未アニメ化部分含む原作には感想で少し言及します（ネタバレには配慮します）。</p>
<p>サムネイルに使用している写真はTVアニメ第１話でモデル地となった赤坂駅です。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>簡単な感想</h2>
<p>この夏はTVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』に傾倒していました。</p>
<p>PVの内容から明るい百合を期待してアニメを観始めたのですが、期待通りでありつつも良い意味で裏切られ、心を打たれた結果今日まで何度も繰り返し鑑賞しています。</p>
<p>演者の演技プランや間の取り方が軽快でコメディとして楽しく、作画も良いため特定のカットの動きを見返したりコマ送りで一枚一枚作画を鑑賞することでも快楽を得られる作品だと思います。</p>
<p>加えて、主人公の甘織れな子の善悪に関するものの見方、考え方が真摯でとても心地よく、これに良い意味で裏切られ感じ入っていました。</p>
<h2>『わたなれ』における恋の機序</h2>
<p>公式サイトでは本作を「ノンストップ・青春ガールズラブコメディ」と説明しています。</p>
<p><a href="https://www.watanare-anime.com/">https://www.watanare-anime.com/</a></p>
<p>ラブコメディと紹介されている通り、本作は恋を主題にしており、TVアニメ版（第12話まで）では二人のヒロインが主人公への恋を自覚するまでの物語が描かれます。</p>
<p>（TVアニメ第12話までの展開では三人のヒロインに順繰りスポットライトが当たりますが、その内TVアニメ第５話から第８話の琴紗月編については、他のヒロインと異なり作中で琴紗月が主人公に恋しているのだと言語化する描写や、それと分かるような映像表現が見当たらないため、ここから除くこととします。）</p>
<p>それらは、ヒロインの性格や主人公との相性の違いから異なる展開になり、片や溺愛もの、片や両片思いものとして異なる快楽を提供してくれました。が、恋の始まりは似た機序で描かれます。</p>
<p>今回は、本作における恋の機序について整理し、各ヒロインが恋を自覚するに至るまでの主人公の言動を見ていきます。</p>
<h3>王塚真唯編</h3>
<p>王塚真唯には積年の悩みがありました。彼女は、「ミス・パーフェクト」「スパダリ」の異名で呼ばれるほどに生活のあらゆる面での立ち居振る舞いを見事に律しているのですが、そんなことができるが故に完全無欠で決して失敗しないことを世間にも家族にも求められ、弱音を吐くことは許されないと認識しており、孤独を感じていました。</p>
<p>第１話で、甘織れな子は王塚真唯の積年の悩みを聞くことになります。話を受けて、甘織れな子は王塚真唯を慰めるため、未来に起こりうる王塚真唯の失敗を赦し、寄り添うことを宣言します。</p>
<blockquote>
<p>れな子「王塚さんが弱音を吐くの、初めて聞いたかも」 <br/>
真唯「もちろん、誰にも言ったことはなかった。君は失望したか？」 <br/>
れな子「え？　ううん、ぜんぜん！　王塚さんでさえ不安と闘いながら、いつも前向きに頑張ってるなら、私ももっとがんばらないとって、そう素直に思えたし、でも毎日がんばってばかりじゃ疲れちゃうのなんて当たり前だし……。私は王塚さんがどんなに失敗しても、絶対に受け入れる！　失敗ひとつ許されないなんて、そんなのムリだもん！　いいんだよ別に。たまには、休んでもさ……」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第１話（2025年）
</Source>
<p>この宣言を受けたことがきっかけとなって、王塚真唯は甘織れな子への恋を自覚します。</p>
<blockquote>
<p>真唯「初めてさらけ出した弱さを、君は受け入れてくれただろう？　家に帰って君の顔を思い浮かべていると、胸のドキドキが収まらなくてな。あれは、私の人生において、非常に衝撃的な出来事だった……そう自覚したとき、気づいたんだ。君が好きだと」 <br/>
れな子「大げさだよ……王塚真唯が凹んでたら、誰だって慰めたに決まってるって……」 <br/>
真唯「だが、君だった。その瞬間、私の前にいたのは、君だったのだ」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第１話（2025年）
</Source>
<p>しかしながら、王塚真唯は甘織れな子の言葉をまだ信じきれていないのでした。</p>
<p>『わたなれ』では、人が言葉を信じる際は肉体的接触がセットになっている必要があることが描写されています（e.g. ハグや手を繋ぐことで初めて王塚真唯の気持ちを実感した甘織れな子、弟に説教するときに相手の手を握るようにしている瀬名紫陽花）。そして、第４話のクライマックスまで甘織れな子の方から王塚真唯に対して肉体的接触を行ったことは一度もありません。本作では言葉を信じさせるためには肉体的接触が必要で、甘織れな子はまだそれを行っていない、という形で、王塚真唯が甘織れな子の言葉をどこかで信じきれていないことが表現されています。</p>
<p>第３話で、王塚真唯は甘織れな子に対して強引に性行為を迫ります。これは、甘織れな子が瀬名紫陽花とお家デートすることを知って嫉妬に身を焦がした王塚真唯がその不安を解消するためにしたことで、甘織れな子に肉体的接触を受け入れられることで（きっと自分を恋慕しているであろう）甘織れな子の想いを実感しようとしたのでした。しかし、これは甘織れな子に拒絶されます。</p>
<p>甘織れな子に性行為を拒絶されたことから、王塚真唯は自分が甘織れな子に好かれておらず、自身の行為は悪だったのだと解釈します。そして、この悪事が甘織れな子から赦されることはないものとして（第１話の甘織れな子の言葉を信じることなく）、償うための自罰的行為（性的な自傷行為）を企図します。</p>
<blockquote>
<p>真唯「本当に、すまなかったな、れな子……。こんなことでしか罪を償う術がない私を、どうか許しておくれ」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第４話（2025年）
</Source>
<p>王塚真唯が何をしようとしているかを知った甘織れな子は、かつて彼女に話した「失敗」を「受け入れる」という言葉と、自身も王塚真唯を大切に想っていることを、行動（キス＝肉体的接触）で信じさせます。罰によって罪人であることから解放されようとする王塚真唯の暴走を止めることに成功し、王塚真唯編はひとまずの終わりを迎えます。<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup></p>
<h3>瀬名紫陽花編</h3>
<p>TVアニメ第９話から第12話にあたる瀬名紫陽花編でも、恋の機序については王塚真唯編と同じ構造が見られます。</p>
<p>瀬名紫陽花は、家族からも世間からも「いい子」として扱われており、自身も「いい子」であろうと律しながら日々を過ごしていました。しかし内心、そのような誰かに求められた自分を演じるだけの「引っ込み思案な自分」（≒「いい子」）から、自身の望みを叶えるために主体的に行動できる自分に変わりたいと思っていました。</p>
<p>ある日、瀬名紫陽花は自宅に遊びにきてくれた甘織れな子の前で聞き分けのない弟たちに怒ってしまい、甘織れな子に見せたくない姿を見せてしまいます。彼女の前で「いい子」を演じきれなかったことにより、家族に対しても甘織れな子に対しても「いい子」であろうと律し続けることに限界が訪れます。</p>
<p>限界を迎えた現状から逃避するため、瀬名紫陽花は家出を企図します。</p>
<p>瀬名紫陽花はこの家出を「引っ込み思案な自分」にはどうせ実行できないだろうと半ば諦めながら駅へと向かいます。しかしながら、駅で甘織れな子と出会い、彼女から同行を提案されます。これが助けとなり、瀬名紫陽花の家出は実行されます。</p>
<p>悪事だと認識していた家出を甘織れな子が咎めることもなく同行しようとした、言い換えると悪事が赦された時に、甘織れな子への恋を自覚したのだと、瀬名紫陽花は解釈します。</p>
<blockquote>
<p>紫陽花「（モノローグ）家出旅行に出たあの日。 <br/>
変わりたいって、思ってた。 <br/>
ずっと『いい子』で来た自分の中に、いつからそんな気持ちが芽生えたんだろう。 <br/>
バカなことってわかってる。 <br/>
電車に乗るような思い切りなんてないのに。 <br/>
駅まで来たら引き返そう。 <br/>
そう、思っていた。 <br/>
だから。 <br/>
だから、天使に会えて、羽が生えた気がした。 <br/>
ほんとは最初から気づいてたんだ。 <br/>
この胸の高ぶりが恋だって」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第11話（2025年）
</Source>
<p>第10話で、家出旅行に付き添った甘織れな子に対して、瀬名紫陽花はその費用を負担するといいます。瀬名紫陽花はこれを悪事（家出したこと、その上甘織れな子に付き合わせてしまったこと）に対する罰として捉えていました。</p>
<blockquote>
<p>紫陽花「やっぱり……だめだよ。みんなとカフェに行くのとは、違う。だって私は、家に弟たちを置いて飛び出してきたひどいお姉ちゃんで……。そんなのに、付き合わせた上にお金を半分こしてもらうなんて、虫が良すぎるよ」</p>
</blockquote>
<Source>
  TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ！（※ムリじゃなかった!?）』第10話（2025年）
</Source>
<p>これは甘織れな子によって止められ、その代わりに瀬名紫陽花はしたかったこと（一緒に入浴すること）を甘織れな子に要求します。これによって、家出という罪が罰へ繋がることがなくなり、家出に対する赦しが達成されます。甘織れな子によって、罪から罰へと繋がる因果関係が上書きされたということです。</p>
<p>加えて、瀬名紫陽花が望む、「引っ込み思案な自分」から変わること（自分の望みを叶えられるように主体的に行動すること）もここで部分的に達成されます。つまり、甘織れな子の赦しは、現状を際限なく肯定して堕落させるような性質のものではなく、ヒロインが成熟するために必要だった承認として機能しています（図１）。</p>
<p>$$
\begin{align*}
&#x26;罪\xrightarrow{赦し}成熟\
&#x26;\downarrow\
&#x26;\xcancel{罰}
\end{align*}
$$</p>
<Caption>図１</Caption>
<h3>甘織れな子の言動の影響</h3>
<p>第11話で、瀬名紫陽花は自身の七五三の日に両親が熱を出した弟たちに掛かり切りだったことに対して癇癪を起こしたエピソードを語り、当時の自分を「我儘」（opp. 「いい子」）だったと回想します。自虐を含みつつも、自身の祝いの場でも自分が「一番」じゃなかったことを根深く覚えており、自分は両親からの承認を十分に受け取れていなかったことを開示したのでした。この開示は第10話において瀬名紫陽花が甘織れな子に対して姉妹ロールプレイを仕掛けた理由になります。</p>
<p>瀬名紫陽花は、ロールプレイとして甘織れな子に姉を演じてもらうことで、これまで家族から受け取れなかった承認を受け取り、今まで見ない振りをしてきた心の傷を癒そうとします。かつて癇癪を起こした時にそれを聞き入れてくれなかった両親とは違う、悪事を赦してくれた甘織れな子相手だからこそ、瀬名紫陽花はこのようなことを求めることができたのでした。このプレイが両親の代わりを求めて行ったことは、瀬名紫陽花がかつて両親に求めた、自分が「一番」であることをプレイ中に甘織れな子に対して求めたことから分かります。また、甘織れな子に姉という役割を負わせた上で親代わりを求めることは、姉でありながら弟たちの親代わりを求められている瀬名紫陽花の現状をそのまま他者に移したということです。これは瀬名紫陽花が現実の役割から逃避するための設定です。</p>
<p>瀬名紫陽花の企みは甘織れな子が瀬名紫陽花の「一番」にならなかったこと（と、王塚真唯の飛び入り）により失敗しますが、この失敗は、卓球勝負の時に一方的に優しさを押し付けることを否定されたことと併せて、瀬名紫陽花にとって甘織れな子とどのような関係を望むのかを改めて考えるきっかけになります。つまり、甘織れな子に対して恋人関係を望むきっかけになります。</p>
<p>甘織れな子に悪事を赦され、「いい子」をやめたとしても自身が承認されうることを知ったことで、瀬名紫陽花はこれまで押さえつけてきた自身の本当の気持ちと向き合います。これは第９話で直ちに完了することはなく、第12話まで時間をかけて行われました。家出旅行の帰路で、初日の出来事を回想しながらその時の感情を再解釈し、瀬名紫陽花は甘織れな子に対する恋心を明確に自覚します。そして、一方的に承認を与える（≒「いい子」として振る舞う）のではなく、一方的に承認を求める（≒親代わりを求める）のでもなく、相手と承認し合う関係の構築を目指すようになります。第11話で七五三のエピソードを含めた自身の過去を語り甘織れな子と王塚真唯に対して親睦を深めようとしたことはその実践です。同様に、第12話では王塚真唯に本心を打ち明け深く心を通わせます。その果実として、瀬名紫陽花は甘織れな子に告白する勇気を手にします。</p>
<p>家出旅行が終わった後、瀬名紫陽花は家事と弟たちの世話をこなす日常に戻りますが、この時の家族のもとへ帰る足取りは力強いものとして演出されます。家出旅行の一連の出来事は快楽を得た後また辛い日々に戻る一時的な逃避ではなく、精神の回復になっていたことが映像で表現されています。</p>
<p>二人のヒロインはそれぞれ家庭に対して問題意識を抱えていますが、そこから『わたなれ』を（ステレオタイプな考えになりますが）家庭が担っているとされる親から子への承認を家庭からは得られなかったヒロインたちが、甘織れな子からそれを受け取り、成熟が始まる物語、と読むことも不可能ではないでしょう。この主張については<a href="https://reiji990.blog/blog/watanare02">次回の記事</a>で詳しく述べていますのでよろしければこちらもご参照ください。</p>
<p>（王塚真唯にとって甘織れな子の赦しはどのような影響を持っていたのか、という点についてはTVアニメ第12話の段階では語られませんが、原作では第４巻から語られ始めます。アニメ勢は『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!（※ムリじゃなかった!?）～ネクストシャイン！～』と続きの原作でその姿を見届けましょう）</p>
<h2>「赦し」について</h2>
<p>ここまで、王塚真唯と瀬名紫陽花が甘織れな子への恋を自覚するきっかけは、自身の悪事を赦されたことだと書いてきました。</p>
<p>「赦し」という言葉を使うにあたって思い出していたのは、教科書で読んだ大澤真幸の記述です。（孫引きになります……）</p>
<blockquote>
<p>　責任という概念を虚しくしてしまうような、残虐な犯罪に関与した犯罪者に対して、私たちは断じて赦せない、という感覚をもつ。そして彼らに厳罰を科したいと考える。そのとき、私たちは、犯罪者たちが赦しを乞うのを待っているのである。赦しを乞う、犯罪者の声を聞きたがっているのである。本当に、心から赦しを乞うならば、赦してあげよう、というのが私たちの普通の態度である。だが、これは本当の赦しだろうか。罪人が罪を認めるということは、罪人が罪人以上のものになったということ、罪人よりはましなものになったということ、少しばかり善人になったということである。罪人が善人に変質した後の赦しは、本当の赦しと言えるだろうか。考えてみると、改悛によって善人になったものを赦すこと、つまり「あなたはもう罪人ではない。」と伝えることは、単に、罪人（だった人）についての客観的な事実を認識し、記述しているだけであって、真の赦しとは言えまい。ここには、赦しというものがもつべき、「倫理的決断」の要素は、全くない。</p>
</blockquote>
<p><Source>大澤真幸. 「責任と赦し」. 『精選 現代文 改訂版』, 筑摩書房, 2013, pp. 264–265</Source></p>
<p>甘織れな子は、王塚真唯から強引に肉体を求められ（剰えその現場を家族に見られ）たことで傷ついていましたし、瀬名紫陽花の家出についても「家族が困っちゃう」よくないことだと認識していました。それらの行為が悪であることは認めていますし、その点を覆そう（正当化しよう）とはしませんでした。その上で、二人のヒロインが囚われている、罪に対して罰で贖わなければならないという発想を上書きして自罰的行為を止め、赦すという「倫理的決断」をしたのでした。</p>
<p>この、甘織れな子の「倫理的決断」とその前提が、私が『わたなれ』で感じていた心地よさを作っています。</p>
<h2>簡単な感想その２</h2>
<p>甘織れな子は「失敗」を「受け入れる」と言いましたが、これには失敗が失敗であることは認める、という姿勢が（当然のことながら）前提として含まれています。つまり言語を誠実に運用するということです。</p>
<p>言語を誠実に運用することは善い社会を実現するための前提のひとつですが、私の観測する限りこれは公的な場でも私的な場でも少なくない人ができていないように思われます。特に失敗や罪を言語化する、認めることを徹底的に忌避するあまり無茶苦茶な態度を見せてくる人に驚かされることが度々あります。</p>
<p>こういう世界に生きていると、『わたなれ』で表現される誠実さは実に癒されます。</p>
<p>原作第５巻以降、甘織れな子は自身の悪意にも自覚的になり、それを正当化せずに苦しみながら行動する様が描かれるようになります。またとある登場人物が自罰的に、破滅願望むき出しで主人公たちに悪意をぶつけてくるのですが、これにはラブコメを読んでいるとは思えない（という言い方もなんだけど）タイプの興奮が押し寄せてきます。甘織れな子が彼女の行動をどのように見つめ、赦すのか（あるいは赦さないのか）、次の第９巻もとても楽しみです。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-1">
<p>『わたなれ』のTVアニメは原作から物語の展開に改変は行われていませんが、王塚真唯編は台詞と地の文（アニメではナレーション）のカットにより原作とは異なる物語構造になっています。原作では、王塚真唯が強引に性行為を迫ったことと、甘織れな子が現場を家族に見られたショックで頬を叩いたことが共に悪事として同列に扱われます。第１巻の終盤で、王塚真唯は「私は君を傷つけた。君は私を引っ叩いた。お互い様ということで、水に流すとしようじゃないか」と言い、甘織れな子もこれに同意します。これは、両者が道徳的に同じ状態（悪）に置かれていること、相対的に片方が悪ではないこと、を認めたということです。ということは、甘織れな子が王塚真唯を悪と判断したうえで赦す「倫理的決断」は行われていないことになります。原作は、甘織れな子と王塚真唯がお互いの行為をどちらも悪であると認め、罪を分かち合い、関係を深めていく、という構成になります。アニメ版においても甘織れな子は王塚真唯の頬を叩いていますが、それを甘織れな子が謝ることにするまでの葛藤や王塚真唯が赦すことの表現は原作から大幅にカットされています。甘織れな子のビンタ以降、第３話は一転してシリアスに演出され、コメディとして消化できない（するべきでない）ことが起きたのだと表現されます。これは、王塚真唯の行為が悪であることを強調する演出です。甘織れな子のビンタは悪事ではなく王塚真唯の悪事への咄嗟の返報として、王塚真唯の行為とは異なり正当な抵抗として表現されます。また、上述した台詞もアニメ版にはありません。アニメ版では代わりに王塚真唯の「本当にありがとう」という台詞が追加されます。これは甘織れな子が王塚真唯を赦すために尽力したことに対する感謝の言葉であり、原作とは異なり両者が善悪の観点で対等の立場にいないことを示しています。アニメ版はコミックス版の表現を採用している箇所が複数あり、原作だけでなくコミックス版も参考にして制作していることが窺えます。王塚真唯編については原作ではなくコミックス版の表現を参考にしたことでこのような物語構造になったのだと思われます。コミックス版における該当箇所の台詞は、「私は君を傷つけて　君が私を許してくれた　君が勇気を出してくれたおかげで私たちは元に戻れたんだ」となっています。この台詞によって、コミックス版では甘織れな子が頬を叩いたことは悪と見做していないこと、王塚真唯編は甘織れな子が王塚真唯を赦す物語であることが明言されています。 <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/yurucamp01</guid>
    <title>『ゆるキャン△』モデル地巡り</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/yurucamp01</link>
    <description>富士山本宮浅間大社、本栖高校、弁天島、浜名湖サイクリング</description>
    <pubDate>Wed, 11 Dec 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>日記</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>趣味にしているアニメのモデル地巡りについて書く、というよりは写真紹介をしてみます。</p>
<p>今回は今年の2月と11月に巡った『ゆるキャン△』のモデル地について。こういうのは訪れた日の情報が重要だと思っているので見出しにそれぞれ記載しています。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>富士山本宮浅間大社（2024/2/26）</h2>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182149.jpg" alt="富士山本宮浅間大社"></p>
<p>構図再現。（コミックス第7巻p.39）</p>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![スタンプラリー企画の犬山あおい](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182103.jpg)
</div>
<p>ちょうどゆるキャン△のスタンプラリー企画があり、犬山あおいがお出迎えしてくれました。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![富士山本宮浅間大社
    拝殿](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182112.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![富士山本宮浅間大社の桜](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182121.jpg)
  </div>
</div>
<p>拝殿の丹塗り、青空と桜が綺麗でした。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![流鏑馬の像](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182131.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![お宮横丁からの商店街](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182140.jpg)
  </div>
</div>
<p>構図再現。（コミックス第7巻p.39, p.42）</p>
<YoutubevideoPlayer id="QSZPTbHfZWc" />
<p>湧玉池。</p>
<p>異常な量のパン耳を持ち込んで池に撒き続けている方がいて、鯉と鴨がめちゃくちゃ集まっていました。動物の健康や生態系に悪影響はないのだろうか……？</p>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![FUJIBOKUの富士宮焼きそば](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182200.jpg)
</div>
<p>神社近くのお店の富士宮焼きそば。</p>
<p>塩と豚バラの油がうまい（もちづきさんレベルの感想）。</p>
<p>各務原なでしこは富士宮焼きそばについて言及するのみで食べてはいないのですが、ゆるキャン△鑑賞以降は作中描写に影響されて家で食べるようになりました。流石に人気のB級グルメだけあって、家近くのスーパーだとどこでも置いてあるので見かけるとつい手を伸ばしてしまいます。</p>
<h3>おまけ（富士山世界遺産センター）</h3>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![富士山世界遺産センター](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182210.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![スタンプラリー企画の各務原なでしこ](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182221.jpg)
  </div>
</div>
<p>駅から歩く途中にある富士山世界遺産センターもスタンプラリー会場になっており、各務原なでしこがいました。このセンターでは富士山の動植物や岩石の紹介されていました。富士山は『ヤマノススメ』でもお馴染みの泊まりで登るイメージがあったのですが、バスなどを利用して日帰りで登山する人もいるらしく、日帰りならそのうち行ってみてもいいかなと思っています。</p>
<h2>甲斐常葉駅・本栖高校（旧下部小学校・中学校跡）（2024/2/26）</h2>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182232.jpg" alt="「ふああ……　明後日からテストかぁ……　そんでテスト終わったら冬休みだぁ……」（TVアニメ1期第8話）"></p>
<p>構図再現。（TVアニメ1期第8話）</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![「ゆるキャン△大好き」と書かれた看板](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182244.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![下部薬局](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182255.jpg)
  </div>
</div>
<p>甲斐常葉駅から降りてすぐの景色がこれ。すごい……。</p>
<p>ちなみにこの看板を設置している下部薬局にはゆるキャン△グッズのミニコーナーがあります。私もここで志摩リンの御守りを購入しましたが、やはり「ゆるキャン△さん」がよく訪れるらしいです。ちなみに2期のEDにも出ていますね。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![案内看板1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182306.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![案内看板2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210194533.jpg)
  </div>
</div>
<p>駅から校舎までは沢山の案内看板が設置してあり、これに従えば迷うことはないです。
2018年に舞台探訪をした方のブログ記事<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup>を見た限り、看板の位置やデザインが変わっているものが一部あるようで、定期的に更新されている様子ですね。いつか新しいキャラデザに変わるのかな。</p>
<p>案内看板に従いつつ旧下部小学校・中学校へ。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![本栖高校校舎の見える道](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182318.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![TVアニメ1期第1話の登校風景](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182329.jpg)
  </div>
</div>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![本栖高校（旧下部小学校・中学校跡）校舎の向かい](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210183655.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![交流ノートBOX](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182353.jpg)
  </div>
</div>
<p>校舎向かいには交流ノートBOX。こちら、2018年のブログ記事の写真にあったプラスチック製のものから金属製のものにリニューアルされています。さも当然のようにある「松ぼっくり」の引き出しには有志が（？）集めた松ぼっくりが沢山入っていました。</p>
<p>モデル地巡りをしていると度々交流ノートというものを見かけますが、書いた（描いた）後の反応を見るわけでもなく、気楽に作品愛やイラストを残す場というのは穏やかな交流ができていいですよね。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![本栖高校（旧下部小学校・中学校跡）校舎](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182446.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![本栖高校（旧下部小学校・中学校跡）グラウンド](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182437.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![C-Station時代のキャラデザのパネルスタンド1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182459.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![C-Station時代のキャラデザのパネルスタンド2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182507.jpg)
  </div>
</div>
<p>旧下部小学校・中学校跡校舎。開放日ではなかったのでグルッとひと回りしただけです。</p>
<p>メインキャラのパネルスタンドはアニメ3期放送のタイミングでエイトビットのキャラデザのものに置き換わったらしいですね。そっちはいつかまた見れるので、この日にC-Station時代のキャラデザのパネルスタンドを見れたのはよかった。</p>
<p>他に、ドラマ版で志摩リンの家として使われた家も見に行きました。旧下部小学校・中学校からは500m程の場所になります。いつかどこかの個人ブログの記事で誰も住んでいないと読んだ気がするのですが、行ってみたら庭に軽トラが停まっていて人の居る気配がありました。人が住んでいるかなどの情報は特に調べていませんが、念のため写真は撮らず。</p>
<p>一通りモデル地を確認した後は、甲斐常葉駅から旧下部小学校・中学校までの道のりを何度か往復して彼女達の登下校を実感していました。</p>
<h3>おまけ（身延町役場下部支所・常幸院）</h3>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![身延町役場 下部支所
  図書コーナー](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182520.jpg)
</div>
<p>校舎近くの役場では、ゆるキャン△コミックスを図書コーナーに並べていました。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![曹洞宗金龍山常幸院1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182556.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![曹洞宗金龍山常幸院2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210201050.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![ゆるキャン△コラボ自販機](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182615.jpg)
  </div>
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![みのワンとちくわのぬいぐるみ](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182624.jpg)
  </div>
</div>
<p>曹洞宗金龍山常幸院。ゆるキャン△観光の際は、ここを駐車場として使って良いそうで<sup><a href="#user-content-fn-2" id="user-content-fnref-2" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">2</a></sup>、ゆるキャン△ファンも度々訪れるお寺ですね。TVアニメ3期第8話で登場しました。</p>
<p>敷地内にはゆるキャン△とコラボした自動販売機が置いてありました。</p>
<p>お参りに中に入ったら<ruby>焚き火グリル<rt>ミニ賽銭箱</rt></ruby>とみのワンとちくわがいました。ゆるキャン△絵馬も取り扱っているらしいですが、この日は売り切れ。残念。</p>
<h2>弁天島（2024/11/8）</h2>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182646.jpg" alt="赤鳥居と浜名大橋"></p>
<p>赤鳥居と浜名大橋。</p>
<p>本当はちゃんと浜名大橋を近くで見たかったのですが、この日はウィーンフィル浜松公演などの予定が目白押しだったため、チラ見しただけで即移動。</p>
<Tweet id="1854712861932896762" />
<p>浜にはアニメコラボの形跡がちらほらと。</p>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![「海行くぞ　海！」（TVアニメ2期第3話）](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182702.jpg)
</div>
<p>構図再現。（TVアニメ2期第3話）</p>
<h2>浜名湖サイクリング（2024/11/9）</h2>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![使用した自転車](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182716.jpg)
</div>
<p>使用した自転車ははまなこサイクルでレンタルしたアルミロード。</p>
<p>初ロードの乗り心地は、犬山あおいの感想（コミックス第13巻, TVアニメ3期11話）と大体同じで、前傾姿勢で乗ることに慣れずはじめはフラついて大変でした。さながら小学生のように鷲津駅の広場で練習してからサイクリング開始。</p>
<div className="-mx-2 flex flex-wrap overflow-hidden xl:-mx-2">
  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![予定サイクリングコース](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241207/20241207180303.png)
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  <div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
    ![サイクリング実績](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241207/20241207180254.png)
  </div>
</div>
<p>サイクリングコース。左（上）が予定、右（下）が実績。コースは本編通り反時計回りで走りました。</p>
<p>始めに予定していたのはコミックス第5巻p.128やTVアニメ2期第3話で提示されたサイクリングコースです。</p>
<p>このコース、浜名湖東側を走りますがそこはサイクリングコースとしてはあまり一般的ではなく坂道が辛く、またこのルートは80kmくらい（？）の相当ハードな道のりになります。流石に運動不足の中学生女子が走るには非現実的と判断したのか、コミックス第14巻p.142では実際に走っていたのは浜名湖大橋を渡って東部を回らない50km程のコースだ、という説明がなされています。これでも結構な距離になりますが。</p>
<p>運動不足のデスクワーカーが慣れないロードで80kmを走るというのはやはり辛く、予定はどんどん遅れ、早々にショートカットを決断してなんとか返却期限に間に合わせた、という有様でした。それでもしばらくは腿の痛みが引かず、帰ってからは移動がままならない日々を過ごす羽目になりましたが。</p>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![浜名湖大橋からの景色](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210201643.jpg)
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<p>志摩リンが走った浜名湖大橋、から見た景色。</p>
<p>サイクリング中、コミックス第5巻やTVアニメ2期3話でも登場した浜名湖佐久米駅を見かけました。走っている途中踏切待ちの間に横見しただけで写真はないですが、ホーム近くにゆりかもめが密集していて、本編さながらの光景で凄かったです。</p>
<div className="my-1 w-2/3 overflow-hidden px-2 xl:my-1 xl:w-1/2 xl:px-2">
  ![濱松地焼き
  鰻まさの肝入り上うなぎ丼白焼付き](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/R/ReijiE/20241210/20241210182729.jpg)
</div>
<p>サイクリング後に食した鰻。肝入り上うなぎ丼白焼付きとビールでなでしことリンが食べていた特上鰻重2つぶんくらいの価格。うまし。</p>
<p>今回のサイクリングは、疲れたどころの話ではなく数日間生活に支障が出るレベルで腿を痛めてしまいましたし、写真もろくに撮れていないのですが、各務原なでしこの受けた苦痛を実際に体感できてよかったです（各務原桜さん、これは本当に人に強いて良いことではなかったよ！）。それに、犬山あおいの初ロード体験、志摩リンの走った浜名湖大橋の景色も一緒に体感できましたしね。モデル地巡りは建物の実物を見るといったことよりはキャラクターの体感したことを共有することに価値があるので。</p>
<h2>著作権マーク</h2>
<p>今回は写真に著作権マークをつけてみました。</p>
<p>描画用のテキストファイルを生成して、ffmpegで写真と合成する手順。結構な数の写真に対して一括で付けることができて楽でよかったです。</p>
<pre><code>echo "Copyright © 2024 reiji990. All rights reserved." > copyright.txt
</code></pre>
<pre><code>ffmpeg -i IMG.jpeg -filter_complex "drawtext=fontsize=100:fontfile=yourfontfile.ttf:fontcolor=#000000@0.7:bordercolor=white:borderw=3:x=w-tw-10:y=h-th-10:textfile=copyright.txt" -y IMG_c.jpeg
</code></pre>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-1">
<p><a href="https://sinkirouno.exblog.jp/27263522/">「ゆるキャン△」舞台探訪009 甲斐常葉駅～本栖高校などに設置の案内看板15か所を訪ねて : 蜃気楼の如く</a> <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-2">
<p><a href="https://yurucamp.jp/news/information/372">本栖高校モデル地（旧下部小学校・中学校）を訪れる方へ - ニュース｜アニメ『ゆるキャン△』ポータルサイト</a> <a href="#user-content-fnref-2" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 2" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/yuzo-kawashima</guid>
    <title>川島雄三に関連するメモと思い出</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/yuzo-kawashima</link>
    <description>または私は如何にして硬派オタクを目指すのを止めてきららアニメを愛するようになったか</description>
    <pubDate>Mon, 08 Jan 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>随筆</category><category>映画</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>映画監督の川島雄三が割と好きなのですが、川島に言及する人が少ないので、川島界隈への加勢がてら個人的なメモや思い出を川島に絡めた形で編集して放流します。</p>
<p>ある程度前後が繋がるようにはしていますが、単なるメモの羅列から始まっていることもあり、特に全体を貫く論理展開のようなものはないです。</p>
<hr>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h2>きららアニメに対する批判と、川島雄三を知る以前の趣味</h2>
<p>きららアニメの話から始めます。</p>
<p>2022年の夏にTVアニメ『けいおん!』を鑑賞しまして、この種のアニメ(a.k.a きららアニメ)を楽しめるようになったことに気付き、それ以来この種のアニメをよく観ています。</p>
<p>この種のアニメは時折、「中身のない」とか、「どこを楽しめばいいのか、分からない」といった評価を受けることがあります。</p>
<p>この種のアニメ批判をする人は、作品が時代や社会や生き方に対して何らかの反応を示していることを求めていることが多いように見えます。例えば以下の記事では、『イノセンス』を「美少女アニメ」が席巻する時代への批判として読んでいます。これは、「中身」のある作品を好む人たちの、その主張や作品の読みかたの分かりやすい例と言えると思います。</p>
<blockquote>
<p>押井監督の『イノセンス』は、現在の「美少女アニメ」にみられる、クリエイターと観客（視聴者）における共犯関係を痛烈に批判している。
近未来に起こるガイノイド（女性のアンドロイド）の暴走殺傷事件の捜査が、『イノセンス』の中心的ストーリーであるが、この「ガイノイド」こそ、いわゆる美少女アニメのキャラクターを、アイロニカルに表現したものだといえよう。<sup><a href="#user-content-fn-0" id="user-content-fnref-0" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">1</a></sup></p>
</blockquote>
<p>私も、彼らと同じようなことを考えていた時期があります。私も学生時代から就業後数年間は『けいおん!』のような作品を好まず、強いメッセージ性のある映像作品を好む質のオタクでした。</p>
<p>その時期に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『マタンゴ』は100回以上は鑑賞しましたし、3桁には届かないにしても、実相寺昭雄やスタンリー・キューブリックの映像作品のいくつかも数十回は鑑賞していました。</p>
<p>何れもメッセージ性が高いとよく言われる作品・映像作家ですし、私自身台詞や演出からメッセージを読み取るために繰り返し鑑賞している、という意識でいました。
つまり、これらのフィクションから社会の問題点や生き方の当否などについて学び、現実に実践して自身の人生ないし自分の周囲の社会を豊かにしていこうという思いがありました。</p>
<YoutubevideoPlayer id="IzKTe8WDHeQ" />
<p>一方で、この1年半程は、制作者がメッセージ性を押し出す作品をあまり重要視しなくなり、余暇には『けいおん!』や『ゆるキャン△』やそれに類似したアニメ作品を繰り返し鑑賞する生活を送っています。</p>
<p>どうしてこのような趣味の変化があったのかを今になって考えてみると、どうも2017年に川島雄三を知ったことがきっかけのひとつだったように思います。</p>
<h2>川島雄三を知ったきっかけ</h2>
<p>数年前まで、私は就職でとある地方にいました。</p>
<p>そこは文化の供給が東京に比べれば少なく、演奏会はその多くがベートーヴェンやモーツァルトの有名どころの組み合わせのプログラム、新作以外の映画の上映イベントといえば公民館で著作権切れ名画の廉価版DVDを鑑賞する会、という環境でした。</p>
<p>決してベト5や『風と共に去りぬ』が嫌いというわけではありませんが、多少拗らせたオタク気質の私としては、家に籠って情報収集するだけでは知ることのできない凝った作品を知る機会が欲しい思いが強くなる日々でした。</p>
<p>(ただし、これは消費者としての話——演奏会や上映会などコンテンツ消費の機会が東京より貧しく、そうしたイベントを通じて思わぬ作品に出会う機会が少ないという話——であり、自身がプレイヤーとして活動する分には、演劇の裏方ボランティアをやってみたり合唱に参加したりと随分面白い体験はできていましたし、舞台制作に多少関与する中で舞台演出の見方が変わったり、人との関わりの中でオペラやショスタコーヴィチの評価を新たにする機会を得られていたので、彼の地での生活も「これは、いい経験でした!」と断言できるものではあります。)</p>
<p>そんなある日、食堂のテレビで、同地出身の映画監督、川島雄三の特集番組を見かけました。それで川島を知り、川島のそれなりに有名でそれなりにニッチという点が興味をそそり、また折角だから住んでいる土地に縁深い監督の映画を観てみようと思い、『洲崎パラダイス 赤信号』のDVDを購入し鑑賞しました。</p>
<p>以来、彼の抒情性を排した乾いた作風に惹かれ、今も時々彼の作品を観ています。</p>
<h2>好きな川島映画</h2>
<p>川島雄三は戦後日本を代表する映画監督の一人のはずですが、川島を重要視する人は私の周りに全くおりませんし、SNS上でも言及する人は稀ですので、作品紹介もしていきます。</p>
<p>私の最も好きな川島映画は『しとやかな獣』です。</p>
<p>家族ぐるみで悪事を働きまくり経済的に成り上がった一家と、彼らの許に訪れる客人たち(一家の被害者、一家より役者が一枚上の悪女)を描いたブラックコメディです。</p>
<p>成功した作家が借りている公団住宅を一家が乗っ取って贅沢する様子や、階段の上り下りで登場人物間の上下関係を表現する演出は『パラサイト 半地下の家族』を彷彿とさせます。</p>
<p>予告はあまり捻りのないバストショットが主に使われていて、構図の妙を伝え切れていないのが歯がゆいのですが、1:42のカットなどに見られる抜けた構図をふんだんに使い、狭い公団住宅の一室内だけの劇で約1時間半全く飽きさせない映像演出は何度観ても痺れます。</p>
<p>湿り気の無い乾いた演出で一家が軽口を叩き続ける様子と、時折差し込まれる戦後の生活のリアルや戦中派の鬱屈を感じさせる台詞で生まれる緊張感の緩急の付け方も良いです。</p>
<YoutubevideoPlayer id="eb1XoHpwdGE" />
<h2>川島雄三を取り巻く言葉</h2>
<h3>川島映画に対する批判</h3>
<p>私の語彙、表現能力では川島映画について十分に記述することができず、私がなぜ川島映画が好きなのかを自身で知ること自体が難しいので、その手助けにするために川島映画が当時どのように受容されていたのか、その表現を確認してみます。</p>
<p>キネマ旬報に掲載されていた川島映画の当時の批評を見ていきます。原著まで確認できておらず、孫引きです……。</p>
<blockquote>
<p>〔『相惚れトコトン同志』（一九五二年）〕流行歌や踊りの場面は全く不要であって映画がいつまでも、そんなもので商業価値を生もうとしているのは情けない。〔……〕もっと戦後の風俗と人心、それは新しいものばかりではなく、古いものも今なお生きていることに目をつけて、新しい庶民生活の風俗喜劇をつくりあげる野心があってよいはずだ。<br/><br/>
〔『あした来る人』（一九五五年）〕もちろん人物設定はそれに相応に疑ったもので、〔……〕すべて一風変わった人物像は〔……〕風俗的に面白い人物設定だが、新聞小説の魔術にひっかかった失敗作というほかない。<br/><br/>
〔『花影』（一九六一年）〕これは夜の銀座裏という特殊地帯をバックとした享楽ムードの風俗映画を出ない作になっているのである。<br/><br/>
以上の批評には、川島映画の特徴を表現する批評用語として「風俗」「風俗映画」という言葉が繰り返し言及されている<sup><a href="#user-content-fn-1" id="user-content-fnref-1" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">2</a></sup></p>
</blockquote>
<br />
書中に記載の出典(未確認):
<br />
滋野辰彦「日本映画批評『相惚れトコトン同志』」、『キネマ旬報』一九五二年五月下旬号、六一頁。
<br />
登川直「日本映画批評『あした来る人』」、『キネマ旬報』一九五五年六月下旬号、九五頁。
<br />
飯田心美「日本映画批評『花影』」、『キネマ旬報』一九六二年一月上旬号、八六頁。
<br />
佐藤勝治「日本映画批評『赤信号』」、「キネマ旬報』一九五六年秋・特別号、七八項。
<p>ここで「風俗映画」と言う言葉が出てきました。(語感から想像はできますが)私の手元の辞書には載っていない言葉でこのままでは不鮮明なので、これを確認しつつ、川島映画の受け取られ方、また川島雄三が自身をどのように捉えていたかを書いていきます。</p>
<h3>「風俗映画」</h3>
<p>キネマ旬報で『花影』を批評していた飯田心美は、「風俗映画」の定義を「その時代々々の風俗人情をうつした作品の総称」としています。<sup><a href="#user-content-fn-2" id="user-content-fnref-2" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">3</a></sup></p>
<br />
書中に記載の出典(未確認):
<br />
飯田心美「日本映画と風俗描写」、『映画評論』一九五一年七月号、四〇頁。
<p>語感から想像した通りの説明ではありますが、これだけでは少し短いので、近時の評論家が「風俗映画」という言葉で括って川島映画の特徴を言語化したもので補足します。</p>
<p>「人物の外面的な奇妙さに重きを置く演出、社会の表面に現れた様々な社会現象について語るナレーション」で作られた映画<sup><a href="#user-content-fn-3" id="user-content-fnref-3" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">4</a></sup>、より技術的な側面から説明すれば「クローズ・アップよりロング・ショットやバスト・ショットを多用する」演出と「映画の筋や人物の心理を語るのではなく、数字や名称を羅列する」ナレーションで作られた映画<sup><a href="#user-content-fn-4" id="user-content-fnref-4" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">5</a></sup>、と書けばもう少し分かりやすいでしょうか。</p>
<p>実際の映像作品ではどうなっているのかを確認してみます。『銀座二十四帖』の冒頭を日活が公開していますので共有します。観て欲しい、というより聴いて欲しいのはOPクレジット終了後のナレーション(2:23〜)です。</p>
<YoutubevideoPlayer id="BIYBHKVwuC0" />
<p>本編を観ていない方でも、冒頭のナレーションが「映画の筋や人物の心理」をまるで語っていないことはお分かりいただけるかと思います。『銀座二十四帖』は特に際立った例ですが、川島映画は他作品も同様の傾向があります。</p>
<blockquote>
<p>川島映画には人物の心理や筋とは関係のないナレーションが頻繁に用いられる。(中略)さらに『銀座二十四帖』の冒頭では、銀座で花屋を運営する三室（三橋達也）が花市場に寄り、開店準備をする道筋をたどりながら、銀座を地誌学的に説くナレーションが流れる。各々のナレーションは人物の奥深い内面に触れる代わりに、社会の表面に現れた様々な社会現象について語る。(中略)すなわち映画に大勢登場する奇妙で滑稽な人物像は、複雑な内面と思想を持つ人間ではなく、現代社会の断面、ひいては社会と風俗のカリカチュアとして提示されている。<sup><a href="#user-content-fn-5" id="user-content-fnref-5" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">6</a></sup></p>
</blockquote>
<p>ナレーションや演出が物語の補強として使われていないために、川島映画の中には、物語がやや希薄で時に背景の街並みや風俗が物語を超えてしまっているものがあります。それは川島も認識していました。</p>
<blockquote>
<p>風俗映画というか、当時の銀座を記録するのが主で、ストーリーは従になった作品です。<sup><a href="#user-content-fn-6" id="user-content-fnref-6" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">7</a></sup></p>
</blockquote>
<p>川島は自作が「風俗映画」と(多く否定的な文脈で)称されていることを認識しつつ<sup><a href="#user-content-fn-7" id="user-content-fnref-7" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">8</a></sup>、それでも「風俗映画」と呼ばれるような映画を発表し続けました。なぜ、「風俗映画」と称されるような制作上の特徴を川島は志向し続けたのでしょうか。</p>
<p>藤本義一が、織田作之助の『清楚』が世間(文壇?)から非難されていた時に川島が擁護したことを語っています。これを読むと、その答えが伺えます。</p>
<blockquote>
<p>で、世間では、織田作は変わったと、織田作というのは、戦局のなかで、どんどん自分の魂を売りさばいていく作家じゃないかと言われている時に、「いや、そうじゃない。こういう時にこれを書いて、これを基礎にして、一応、敵の目を誤魔化しておいて、次の出版統制の外れた暁にはまた素晴らしいもの書くよ」と。だから、"日本軽佻派"を名のってふたりで意気投合して、織田作にシナリオを書かせるんです。<sup><a href="#user-content-fn-8" id="user-content-fnref-8" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">9</a></sup></p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>『清楚』も、新聞批評とか文学史上では、織田作の作品としては、転向して自分を失って、世の中におもねって書いた作品であるという酷評を受けた。それを川島監督は、そうじゃないと。こういう節操を欠く部分、というよりも自分の思想を変えられていく部分をもつ時代のなかに生まれてきているんだから、しかたがないというんですね。<sup><a href="#user-content-fn-9" id="user-content-fnref-9" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">10</a></sup></p>
</blockquote>
<p>これに対する具珉婀の見解です。</p>
<blockquote>
<p>「出版統制の外れ」る時代の到来を予示する川島雄三の発言には、思想に対して彼が抱いていた不信感が如実に現れている。人物の外面的な奇妙さに重きを置く演出、社会の表面に現れた様々な社会現象について語るナレーションは、曖昧な思想ではなく、今という具体的で直接的な感覚を描くために川島雄三が用いた手法だったのである<sup><a href="#user-content-fn-10" id="user-content-fnref-10" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">11</a></sup>。</p>
</blockquote>
<p>「思想を変えられていく」感覚というのは、2024年を生きる私たちも体感しているものだと思います。十数年ほど前までは当たり前のように使われていた表現が今では憚られるようになったり、公衆衛生に関する常識が突然変わったり、その常識が急速に転回したり……。</p>
<p>それぞれの世間の思想の変化や個別の表現についての賛否をここには書きませんが、私自身、このような環境にいることで、川島のように「思想」や「ストーリー」といった観念に安易に迎合せず、現在目の前にあるものの具体性を追求することへの関心が強くなった実感があります。</p>
<p>例えば、私がよく楽しんでいる『けいおん!』や『ゆるキャン△』も、「ストーリーは従」で、主に高校生活や趣味の具体性を追求した作品です。
これらの作品の物語は、視聴者のストレス要因を極度に排除することに特化しており、人物間の軋轢や葛藤といった、物語上のカタルシスを生む(と同時にストレスにもなる)ものは殆ど描写されません。
平沢唯は初めてのギター購入イベントにおいて、高級ギターを琴吹紬のコネによってあっさり格安で購入していますし、大垣千明たちの山中湖キャンプでのピンチも、他のキャンプ客の助けであっさりと解消されます。
また、軋轢らしいものも、2作品のシリーズを通しても『けいおん!』11話の律と澪の間の一件だけですが、これも律の体調不良を原因とすることで、両者や周辺の関係に軋轢による不可逆的変化が起きないようにしていました。
これらの作品の「主」はストーリーではなく、キャラクターの可愛らしさや軽妙な会話、高校生活や楽器の練習やキャンプの風景のリアルさ、優れた音響や音楽になります。これは川島が『銀座二十四帖』において「ストーリー」を「従」にして「銀座を記録する」ことを「主」としたことに似ます。</p>
<p>きららアニメと川島映画に共通項を見出してから、私がきららアニメを楽しめるようになったのは、川島映画でこの種の映像作品の楽しみ方が分かったからではないか、と思うようになりました。</p>
<p>更に脱線してアニメ関連の話を続けます。</p>
<p>『けいおん!』を観始めた頃から、コンテンツツーリズムを楽しむことが増えました。
昨年は西宮市(『涼宮ハルヒの憂鬱』)を歩き、高尾山(『ヤマノススメ』)に登り、江ノ島(『ぼっち・ざ・ろっく！』)に行きました。今年初めには久喜市鷲宮(『らき☆すた』)を歩き、近く『けいおん!』観光を実行するべく準備を進めています。
(『ゆるキャン△』のモデル地は車移動を前提とする場所が多く実施が難しいところです……)</p>
<p>普段の食事は割合自炊しているのですが、そのレパートリーの一部は『ゆるキャン△』に影響されています。
1期5話で志摩リンが作るスープパスタは簡単に作れますし、家で余らせがちな牛乳の消費方法として有用なので愛用しています。</p>
<p>こうした、さながら『ポケモン GO』上でポケモンをゲットするために遠出をする人たちのように、現実での行為を通して肉体的にアニメを消費していくようになったのも、川島映画の具体性を追求した作風に影響された結果と言えないこともなくもなくもないかもしれません。</p>
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      art="西宮"
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</div>
<h3>「日本軽佻派」</h3>
<p>前項で、川島と織田作之助が「日本軽佻派」を名乗っていたことを藤本が語っていました。この言葉についても確認していきます。</p>
<p>「日本軽佻派」と言う言葉は有難いことに川島による解説がありますので、それを引用します。</p>
<blockquote>
<p>日本軽佻派——戦争末期の何とも云われぬもっともらしい雰囲気に反発を感じ、有志語らって（と云っても二三人に過ぎぬが）ひそかに逆説的な「日本軽佻派」の名乗りをあげ、そのことをたわむれに故人にはかったのに対し、讃意を表して来た。<sup><a href="#user-content-fn-11" id="user-content-fnref-11" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">12</a></sup></p>
</blockquote>
<p>織田は「日本軽佻派」について記述する際ジンメルの言葉に触れていました。
ジンメルについて、川島と織田の間には共通の認識があったようです。
ジンメルについての川島の解説から、「軽佻」という言葉には「退屈」を「避け」て且つ「人生に堪える」ための選択、というニュアンスが込められていることが窺えます。</p>
<blockquote>
<p>ジンメルの言——ゲオルク・ジンメルの日記抄の中の言葉「ある深さを持つ人間にとって人生に堪えるには一般に一つの可能性しか存しない。即ちある程度の浅薄ということである。」「大多敷の人々にとっては軽佻か退屈か何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である」等々。<sup><a href="#user-content-fn-12" id="user-content-fnref-12" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">13</a></sup></p>
</blockquote>
<br />
"清水幾太郎 訳,「日々の断想 60」『愛の断想 日々の断想』, p.80, 岩波書店, 1980"
<br />
"同「日々の断想 124」, p.116"
<p>川島の代表作、『幕末太陽傳』の話をします。</p>
<p>本作の主人公の左平次は、「やれ攘夷の勤王のと騒ぎ廻って」相模屋に入り浸っている高杉晋作ら奇兵隊の、その「思想」を重視する生き方には賛否の意を示さず、来る新時代への期待も旧時代への郷愁もなくただ秩序が崩壊し凋落し続ける「物騒な世の中」である幕末で、自身の肺の病の養生のことだけを考えて金稼ぎに奔走し、最後はアメリカに渡るために相模屋のしがらみを捨てて逃避します。ちなみに、川島が語る『幕末太陽傳』のテーマは「積極的な逃避」です。<sup><a href="#user-content-fn-13" id="user-content-fnref-13" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">14</a></sup></p>
<p>左平次の、世間の「もっともらしい雰囲気」に関与せずに個人の具体的な事情のためだけに終始行動する姿は、「日本軽佻派」の精神を分かりやすく体現したものだと思います。</p>
<p>今村昌平と川島のやり取りを紹介します。
この、良い映画を撮るといった観念よりも生活を優先することやそれを後輩に言える川島の価値観はどことなく左平次的です。</p>
<blockquote>
<p>彼には、名作も傑作ももちろんあるけれども、つまらぬプログラムピクチュアもたくさんある。松竹時代に「何故こんなひどい映画撮るんですか」という私の問いに、一瞬眼ばたきもせずに私の顔をみて「……生活のためです」と答えたことがあります。<sup><a href="#user-content-fn-14" id="user-content-fnref-14" data-footnote-ref aria-describedby="footnote-label">15</a></sup></p>
</blockquote>
<YoutubevideoPlayer id="-WEf_yTcc98" />
<p>「日本軽佻派」の説明の、「戦争」の「雰囲気」への「反発」と聞くと、『細雪』などの戦前・戦中に発表された世の流れから距離を置いた創作物のことや、太宰治が戦時中に発表した作品内で戦争賛美の表現を徹底して避けていたという話を思い出します。</p>
<p>今年に入ってから、SNS上で直近の震災や事故に関する流言飛語や考えなしの反応が撒き散らされており、げんなりしています(否、これは今年に限らずいつものことですね……)。
この種の投稿のオリジナルは見ずに済んでいるのですが、それを諌める人たちの投稿がやたらと「おすすめ」されてくるので結局問題の投稿の内容が目に入ってしまうんですよね。そしてその指摘も必ずしも適切ではないという無間地獄。
「軽く死ねますね」。</p>
<p>当事者でないのであれば(の他にも、いくつかの留保を設けることにはなるのでしょうが)、こうした「節操を欠」いた「もっともらしい雰囲気」からは、左平次に倣って逃げるに限ります。この記事の編集作業もSNSから距離を置くための方策の一つです。こういうちまちました作業をしていると俗世から離れて無心になれて良いです。</p>
<h2>最近のこと</h2>
<p>最近はギリシャ悲劇などを不慣れな手つきで読んでいます。</p>
<p>読み始めたきっかけは別にありますが、今読んでいる目的は、近視眼的に眼前の事態に反応することを止めて、現実のあるべき姿を捉えて大局的な視野で物事を判断できるようになり、個人的な閉塞感を打開することです。
そのために、政治の原点の姿を端的なイメージで伝えるギリシャ悲劇や、法の原理を説くローマ喜劇や、それらの副読本的書籍をのろのろと読んでいます。
最近忙しくなってきたので、果たして今年中にまとまった量が読めるのかは分かりませんが……。</p>
<p>ですので、ここまで書いてきたことも既に過去のことで、最近は「思想」や「ストーリー」から距離を置くことから転向し始めていることを最後に書いて終わります。</p>
<section data-footnotes class="footnotes"><h2 class="sr-only" id="footnote-label">Footnotes</h2>
<ol>
<li id="user-content-fn-0">
<p><a href="http://k-onodera.net/?p=237">『映画 けいおん！』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん！論争」 | 小野寺系の映画批評</a> <a href="#user-content-fnref-0" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 1" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-1">
<p>具珉婀, 「思想からの積極的逃避」『川島雄三は二度生まれる』, pp.34-35, 水声社, 2018 <a href="#user-content-fnref-1" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 2" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-2">
<p>同上, p.37 <a href="#user-content-fnref-2" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 3" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-3">
<p>同上, p.45 <a href="#user-content-fnref-3" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 4" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-4">
<p>カワシマクラブ 編,「はじめに」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.21, ワイズ出版, 2018 <a href="#user-content-fnref-4" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 5" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-5">
<p>具・前掲, p.41 <a href="#user-content-fnref-5" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 6" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-6">
<p>川島雄三, 「自作を語る 銀座二十四帖」『花に嵐の映画もあるぞ』, p.326, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-6" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 7" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-7">
<p>川島雄三, 「自作を語る 東京マダムと大阪夫人」『花に嵐の映画もあるぞ』, pp.322-323, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-7" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 8" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-8">
<p>藤本義一,「師匠・川島雄三を語る」『鬼の詩 / 生き急ぎの記 藤本義一傑作選』, p.279, 河出書房新社, 2013
{/* 藤本義一,「師匠・川島雄三を語る(講演再録)」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.390, ワイズ出版, 2018 */} <a href="#user-content-fnref-8" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 9" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-9">
<p>同上, pp.279-280
{/* 藤本義一,「師匠・川島雄三を語る(講演再録)」『偽善への挑戦　映画監督 川島雄三』, p.391, ワイズ出版, 2018 */} <a href="#user-content-fnref-9" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 10" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-10">
<p>具・前掲, p.45 <a href="#user-content-fnref-10" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 11" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-11">
<p>川島雄三 序・註, 「織田作之助からの手紙」『監督川島雄三 松竹時代』, p.187, ワイズ出版, 2014<br />
尚、旧字体は新字体に，旧仮名は新仮名にあらためた。 <a href="#user-content-fnref-11" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 12" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-12">
<p>同上, p.187<br/>
ジンメルの言葉の出典は、"Georg Simmel, Fragmente und Aufsätze : Aus dem Nachlaß und Veröffentlichungen der letzten Jahre, münchen, Drei masken Verlag, 1923"<br/>
入手しやすい訳での該当箇所は以下。(川島の引用する訳は未詳。) <a href="#user-content-fnref-12" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 13" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-13">
<p>川島雄三, 「監督の言葉 『幕末太陽傳』」『花に嵐の映画もあるぞ』, p.22, ワイズ出版, 2014 <a href="#user-content-fnref-13" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 14" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
<li id="user-content-fn-14">
<p>今村昌平, 「下北半島に建つ先輩監督川島雄三の碑」『遥かなる日本人』, p.41, 岩波書店, 1996 <a href="#user-content-fnref-14" data-footnote-backref="" aria-label="Back to reference 15" class="data-footnote-backref">↩</a></p>
</li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>

  <item>
    <guid>https://reiji990.blog/blog/aikatsu-stars01</guid>
    <title>「競技」から「生き方」へ、アイドル活動をアップデートせよ</title>
    <link>https://reiji990.blog/blog/aikatsu-stars01</link>
    <description>(本記事は拙note記事からの転載です) 本記事ではアイカツスターズ！１年目のテーマを咀嚼し、物語の全体像と現代社会との接続を試みる。アイカツスターズ！２年目は内容が異なるため、２年目については後日別の記事でまとめたい。 はじめに 「アイカツ」とは、アイドルが日々のレッスンで技を…</description>
    <pubDate>Sat, 16 Nov 2019 00:00:00 GMT</pubDate>
    <author>reiji990.mail@gmail.com (reiji990)</author>
    <category>精読</category><category>アニメ</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>(本記事は<a href="https://note.com/reiji990/n/n514a0523c6c1">拙note記事</a>からの転載です)</p>
<YoutubevideoPlayer id="HfDAkXZk3kY" />
<p>本記事ではアイカツスターズ！１年目のテーマを咀嚼し、物語の全体像と現代社会との接続を試みる。アイカツスターズ！２年目は内容が異なるため、２年目については後日別の記事でまとめたい。</p>
<TOCInline toc={props.toc} asDisclosure />
<h3>1. はじめに</h3>
<p>「アイカツ」とは、アイドルが日々のレッスンで技を磨き、オーディションで仕事を勝ち取り、仕事を成功させる、「アイドル活動」の略である。アイドル活動は、そのものずばり仕事のことであり、作中でアイドルがアイドル活動で得た学びは、現代人の社会への対峙姿勢を改めさせるものが多い。今回、アイカツスターズ！の登場人物はアイドル活動から何を学んだのか、何が変化したのか、という観点で物語を観ていき、本作が現代人に何を説いているのかを読み解いていく。</p>
<h3>2. アイカツスターズ！の特異性</h3>
<p>第 1 作アイカツ！が「アイドルスポ根」と紹介されたことから、アイカツシリーズは以降の作品もスポ根として捉えられがちで、その文脈での感想が多く見受けられる。だが、本当にアイカツスターズ！はスポ根と呼ばれるような作品だろうか。</p>
<p><a href="https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1344230262">https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1344230262</a></p>
<p>wikipedia でスポ根の記事を見てみると、以下の定義が紹介されている。</p>
<blockquote>
<p>スポーツの世界で根性と努力によってライバルに打ち勝っていく主人公のドラマ—</p>
</blockquote>
<p><Source>『戦後史大事典』 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E6%A0%B9">スポ根 - Wikipedia</a></Source></p>
<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E6%A0%B9">https://ja.wikipedia.org/wiki/スポ根</a></p>
<p>アイカツ！はこの流れを汲んでおり、日々のレッスンと価値観のアップデートによりオーディションの合格を勝ち取り、ステージを成功させ、最終的に主人公星宮いちご、大空あかりはそれぞれの目標だった神崎美月、星宮いちごに勝利する。故にアイカツ！はスポ根と評される。アイカツフレンズ！1 年目も同様に、友希あいねと湊みおが、お互いやライバルと高めあい、目標のラブミーティアを超えダイヤモンドフレンズの称号を手に入れる。</p>
<p>アイカツスターズ！も概ね似たコンセプトになっており、主人公達はライバルと切磋琢磨し、アイドルの花形「S4」を目指す。しかし、アイカツスターズ！は 1 年目中盤におおよそスポ根らしからぬ展開が待っている。</p>
<p>アイカツスターズ！の主人公、虹野ゆめは、「不思議な力」と劇中で呼ばれる、ステージで実力以上に輝くことができる特殊能力を持つ。この力により、実力で劣っているにもかかわらず、第 21 話で桜庭ローラにオーディションで勝利する。更に、第 29 話においても、ゆめに勝つために激しいトレーニングを重ね、歌唱力や振付のキレを伸ばしたローラに対して、ゆめは「不思議な力」発動によって難なく勝利を重ねる。</p>
<blockquote>
<p>「私…私、今度こそはゆめに負けたくなくて…それで、ゆめの何倍も練習したのに…それなのに」by 桜庭ローラ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 29 話）</Source></p>
<p>アイカツスターズ！の物語は、適切な努力で適切な能力を伸ばすことが勝敗に関係しないという点で、前作アイカツ！や次作アイカツフレンズ！とは大きく異なる。</p>
<p>（なお、第 29 話での桜庭ローラの敗北は決して理不尽な仕打ちではない。彼女が本来のアイドル活動をしていなかったことが原因である。この本来のアイドル活動の在り方については、4 項で記す）</p>
<p>アイカツスターズ！の物語は他作品のようにスポ根的な展開で成功をおさめるものではない。では、本作品は敗者にどのような物語を与えるのか。</p>
<h3>3. 敗北の先に待っているものは</h3>
<p>スポ根ものであれば、ライバルとの対決、敗北の先に努力で雪辱を晴らす、という展開がお約束である。しかしアイカツスターズ！はそれをしない。</p>
<p>桜庭ローラは虹野ゆめへの敗北後、白銀リリィの助言により「Going my way」という生き方を得る。そして、S4 決定戦ではゆめには再び負けつつも、自分らしく歌えたことに深い満足感を得る。</p>
<blockquote>
<p>「私やったよ！ゆめ！点数なんかどうでもいい！こんなに気持ちよく歌えたのは、生まれて初めて！私、ようやく自分自身の歌を歌えたんだ…！」 by 桜庭ローラ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 48 話）</Source></p>
<p>また、第 25 代劇組 S4、如月ツバサは、始め歌組に合格したが、オーディションで白鳥ひめに負けたことをきっかけに劇組に組替えした経歴を持つ。両者とも元々は勝利にこだわる節があったが、それぞれの敗北体験以降考え方を改め、自分らしい生き方を模索することになる。</p>
<p>アイカツスターズ！において、敗北の先に待っている展開は、雪辱戦に勝利することではなく、自分がより輝ける居場所の発見になる。</p>
<blockquote>
<p>「もしもこの先、何か辛いことが起きた時、そういう時こそ、自分を信じてほしい。たとえ挫折を味わっても、人は変われる。成長できる。自分自身にその意思があれば、いつかきっと、自分の居場所で光り輝くことができるはずだ」by 如月ツバサ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 50 話）</Source></p>
<p>なぜこのような展開を制作者は選択したのか。その読解のために、作品のテーマである”個性”と”セルフプロデュース”、テーマに対立したモティーフである「不思議な力」とはなにかについて整理したい。</p>
<h3>4. ”個性”と”セルフプロデュース”</h3>
<p>”個性”と”セルフプロデュース”の重要性を本作は繰り返し強調している。</p>
<blockquote>
<p>「ねえみんな。誰よりも輝くスターになるために一番大切なことは何だと思う？それは”個性”！この学園では、自分らしく輝くためにセルフプロデュースを教えている」by 響アンナ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 1 話）</Source></p>
<p>ところで個性とは何か。個性はとても曖昧な言葉で、日本語を母語とする人の間でも認識が異なるため、特別に説明を要する場合が多い。また、作中でも個性が意味することについて悩み迷走するエピソードが見られる。(e.g.第 7 話、第 23 話)</p>
<p>この問いに対する作中の回答として、白銀リリィの言葉を引用する。「歩く個性」と呼ばれる彼女自身は、個性を”個々人の能力の差異”だと認識している。</p>
<blockquote>
<p>「私たちは、みんな一人一人違います。感性も、記憶力も、運動能力も、体力も、顔だちもスタイルも、そして声の質も、声量も。様々な個性があるのですから、レッスンの仕方も様々で良いのです」by 白銀リリィ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 26 話）</Source></p>
<p>この発言に対して作中で反論および異論は起こらないため、作中で扱われる個性は上記の認識で問題ないようである。</p>
<p>次に、セルフプロデュースとは何か。これも作中で明言されている。</p>
<blockquote>
<p>「自分で考えて行動する、それがセルフプロデュース」by 響アンナ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 1 話）</Source></p>
<p>具体的には、自主ライブを企画する生徒にアンナ先生がそれこそがセルフプロデュースだと褒める描写が多い。自主ライブでは、会場、ライブ楽曲、ドレスコーデ、その他内容を自身の個性に合わせて選択する。そこに他者との競争はなく、自己選択があるだけだ。</p>
<blockquote>
<p>「誰かに勝つことが、あなたのアイカツなのですか？」「それ、アンナ先生にも言われました。お前は、お前のやり方で輝けば良いって」「それなら、もう答えは出ているではありませんか」by 白銀リリィ、桜庭ローラ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 33 話）</Source></p>
<p>「自身の能力（個性）を認識し、自分が最大限輝ける魅せ方を選択する（セルフプロデュース）」これがアイカツスターズ！が描く最終的なアイドル活動の形であり、テーマを咀嚼したものとなる。これと対の生き方が虹野ゆめの「不思議な力」である。</p>
<h3>5. 「不思議な力」が意味するもの</h3>
<p>作中でゆめを苦しめる「不思議な力」が意味するものは何か。それについては下記記事で詳細に解説されている。</p>
<blockquote>
<p>不思議な力は自己肯定感を持てないアイドルが、己を偽り選んでしまう卑怯な手段の数々をアニメ的に表現したものと言えるでしょう。</p>
</blockquote>
<Source>
  [「アイカツスターズ」虹野ゆめの不思議な力が意味するもの -
  アニメごろごろ](https://taida5656.hatenablog.com/entry/20180514/p1)
</Source>
<p><a href="https://taida5656.hatenablog.com/entry/20180514/p1">https://taida5656.hatenablog.com/entry/20180514/p1</a></p>
<p>上記記事に補足すると、第 1 話で虹野ゆめは「不思議な力」を発動したライブの記憶がないことが描かれている。ここから、「不思議な力」はゆめによる主体的な選択ではないことが表現されている。</p>
<p>つまり「不思議な力」が描くものは作中のアイドル活動で奨励される生き方とは真逆の、「自身の能力（個性）から目を背け偽ること、自己選択（セルフプロデュース）を行わず周囲の反応に流されること」となる。</p>
<h3>6. アイドル活動の報酬</h3>
<p>そもそも彼女達は何故アイドル活動を続けるのか。そのインセンティブはなにか。本作品は「勝ちたいキモチ」の描写が多く、これがアイドル活動の動機の大切な要素になっていることは確かである。だからといって勝利がゴールかというと、少なくとも虹野ゆめにとってはそうではなかった。</p>
<p>勝者になった後の虹野ゆめには更なる問題が待ち受けていた。それは、ゆめを幾度も勝利に導いた「不思議な力」そのものだった。具体的には、この力の悪影響により声が出なくなるというものである。これは、自分を偽るうちにクリエイティビティを失い、自己表現ができなくなるということの表現だろう。</p>
<p>この「不思議な力」を克服し「個性に合わせた自己選択（セルフプロデュース）を行うことができる」ために課せられた課題は「自己肯定感の獲得」だった。</p>
<blockquote>
<p>「自分に自信を持たなきゃ！あの不思議な力に頼らない、素敵なステージにするんだから！」by 虹野ゆめ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 36 話）</Source></p>
<p>これに対する回答は「日々の努力、仲間やファンの応援に応えたい気持ち」。つまり、虹野ゆめにとって自己肯定感の獲得に必要なことは、オーディションの合格やライバルからの勝利ではなく、能力の向上と社会性の発達だった。</p>
<p>そして、自己肯定感を獲得し、「不思議な力」を克服し、セルフプロデュースを成功させた、ゆめに与えられる報酬は、個人ステージの成功と仲間からの祝福。</p>
<p>ここで重要なのは、勝負に勝つことはあくまで登場人物のアイドル活動の動機でしかないということ、勝利は、テーマ達成の鍵にも、報酬にもならないという点である。ゆめにとっての報酬は、仲間やファンから称賛を受けられる居場所の獲得になる。こうしてみると、勝敗の結果によって異なる道を歩んだゆめとローラが、最終的には同じ境地にたどり着いたことが分かる。</p>
<p>ここで、この展開を咀嚼するために現実社会の話に移る。これからの社会では、「個性を押し殺し受動的に嫌な仕事を続けることが美徳である」という昭和の工業社会的価値観が通用しなくなることは明白である。これからの社会人に求められることは、個性を生かして社会にコミットする手段と居場所を主体的に選択し続けることである。これは個人の幸福を追い求める活動であって、誰かを出し抜くことや客観的評価での勝ち組を目指すことではない。さらに言えば自由化の進むこの社会では外から幸せの形（客観的評価）は押し付けられない分、代わりに自分の中に幸福観を創っていくことが求められる。本作はこの現代的価値観が根付いた環境下で生きていくことのイメージトレーニングとして機能することを目指しているように思う。</p>
<p>だからこそ、桜庭ローラや如月ツバサは敗れた後、次の勝負での勝利に固執することはない。何故なら、そもそも彼女たちが目指すものは自身が輝くことであって誰かに勝ることではない、勝利（客観的評価）は彼女たちのアイドル活動の報酬足りえないからだ。</p>
<h3>7. 主人公達は物語を経て何が変化したのか</h3>
<p>虹野ゆめは、桜庭ローラに勝つため「不思議な力」に流されるが、そのデメリットに気付き、「不思議な力」からの自立を目指す。そのために、日々の成長と、ファンや仲間との交流という、日常の営みから自己肯定感を獲得する。結果として「不思議な力」を乗り越えてソロステージを成功させる。</p>
<p>桜庭ローラは、虹野ゆめに敗れた後、勝つ手段を探して迷走するが、「Going my way」という価値観を手に自分らしく歌うことを目指し、S4 決定戦のステージの出来に深い満足感を得る。</p>
<p>ここまで紹介するタイミングがなかったが、香澄真昼と早乙女あこも、始め勝敗の結果に固執し相手（香澄夜空、虹野ゆめ）に敵対姿勢を取っていたが、最終的に相手を受け入れ、自己の満足のためにアイドル活動をするようになる。</p>
<p>1 年生組の 4 人にはそれぞれ全く異なる物語が与えられるが、共通している点がある。それは、優劣を競うこと（客観的評価）に拘る「競技」から、個人の幸福（主観的評価）を追求する「生き方」そのものに、アイドル活動（勉強と仕事）の在り方をアップデートしたことである。</p>
<p>これが本作の物語で起きた変化であり、現代人の勉強と仕事に求められる在り方である。</p>
<h3>最後に</h3>
<p>アイカツスターズ！の主人公組の物語を整理した結果は以上の通りだが、本記事が勝負事そのものを本作が否定しているかのような書き方になってしまっているので、補足を入れる。勝利の意味、勝者の役割についても本作は描いている。ただし、描き方としては成熟した先輩達の背中を見せるという静的な形のため、物語を整理しようとすると出てこなくなってしまうが。</p>
<blockquote>
<p>「もしも、アイドルとして道に迷ったなら、S4 を見てください！私たちはいつでも、一番輝く星として、皆さんの行く道を照らし続けますね」by 白鳥ひめ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 1 話）</Source></p>
<blockquote>
<p>「S4 としてアイカツして分かったの、一人で輝くよりもみんなで輝いた方がずっと素敵だってこと、これからもたくさんのアイドルにもっと輝いてほしい、だからみんなの光になれるように、みんなに道を示せるように、今日は私が一番輝く星になる」by 白鳥ひめ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 49 話）</Source></p>
<blockquote>
<p>「きっと、どんな未来がきても大丈夫。この場所が、この思いが、S4 であったことが……私たちを導いてくれるから」by 白鳥ひめ</p>
</blockquote>
<p><Source>（第 50 話）</Source></p>
<p>本作において、S4（勝者）は「道標」という役割が付与される。</p>
<p>この、勝者の地位が自他に及ぼす影響については、２年目から動的に物語に組み込まれるため、次回で言及したい。</p>]]></content:encoded>
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